1)家で 朝 トーストに 溶けたチーズ乗っけて ほぼ  毎日 此れを 食べているのだが

食べる度に 「手で食べて 良いのかな?」と 思う

朝起きたのだから 顔と手を 洗ってから 食べる「ベキ」だよな と思うが

でも ベットから 起きると  直ぐに 女房が ご飯 出来たわよ と 出してくれる

2) 勢い 手も顔も洗わずに coffeeを すすり パンを 手で千切って 朝ご飯となる

肉と野菜だけでは 食事に成らないし 冷めたトーストは 旨くない 

それに  お米か パンと いう 炭水化物と 言うか デンプンは 食事に必要だ

3)で そのデンプンを 

手づかみで 食べるパンと  お茶碗とお箸で 食べる日本 を 比べれば

日本の方が 衛生的と 思うのは  僕が傲慢なのかな?

4) 最近 何処の店でも  入り口に 消毒薬が 置いてある

無視して入ると 店員さんに 睨まれる 「おい その手で 商品 触るなよ」見たいだ

オイオイ 食事じゃ無いんだから 安売りの薬屋(ドラッグストア)に入るんだから

と 言っても 世の中の風潮は 逆らいにくい

5)飲み屋の 女性が相手してくれる 濃厚接触と 

コンビニまがいの 薬屋と 同じにするなよ と 店員さんに 言っても仕方ない

6)女房のお手伝いで トイレットペーパーを買うだけなのだ

レジに 並んでいるだけで 僕の 妄想は ドンドン 広がる




1-天気がよいので 犬が早く散歩しろと 言う
 言われるままに 外にでると セーターが 暑い

2-平和公園では お食事の方も 多い
おコボレを 貰おうと 犬は 一人一人の顔を覗いて 歩く

3-久しぶりに観光バスが3台停まっていた
旗を持ったガイドさんも 観光客も見えなかったが
キット資料館にでも 入って居るのだろう
月曜日は 外人さんも 少ない

4-情報は 溢れているで 広島まで 来なくても 分かるのだが
「綺麗で 安全で 武力に 対抗する 拠点としての 広島の 空の広さと川の瑞々しい透明度」が売り物なのか と 思う

5-パリのセーヌも ロンドンのテムズも 水の汚れ具合が半端でない
で 外人さんは なぜこんなに綺麗で 魚が泳いでいるのが 見えるのだ 
こんな都会なのに 川は農村か? と 驚いている
1)天気が 良いので 平和公園は 人で 一杯だ  

スリランカから 来てる15人くらい(子供4−5人)の グループと 話した

日本語を 喋ってくれるが どうも 分かりにくい

2)それで 英語にして良い? と聞くと 「スリランカは 英語で 話してます」 と 言われて

少し 楽に成った 

3)日本に 出稼ぎに 来ている方達なのだろう でも 休みの日に 広島まで 来れるのは

かなり 裕福な 方なのかも しれない

4)日本も ニューヨークや カリフォルニア 見たいに 色んな言葉をシャベル 人が

行き交う 時代に 成って来ているのかも
1)上天気だ 平和公園のお蔭で 知らない人と 話し合う機会が 貰える

今日は  フランス人の親子4人 だ(子供:男8才女6才)と 犬のお蔭で仲良くなった

2)日本人と違って 子供が最優先で無い所が 何とも 気持ちよい

自分たちが 原爆の事実を理解しようと してる

3)質問が なぜ アメリカは 日本に 落とした から 始まる :ロシアとの競争だろうと 回答 

貞子(サダコ)の物語は よく知られているらしく  感激してました

4)なぜ 日本は 原爆が 落とされる まで 降伏しなかったのか と 言う質問が

答えにくい 質問です こう聞いて来るのは

「パリを守る為に ドイツに降伏する フランス人」だからでしょう

5)僕の答えは

アジアの盟主として ヨーロッパ文明に 死んでも戦いたかったからでしょう

インドも英国に ベトナムはフランスに インドネシアはオランダに 植民地にされ

唯一 国として 西欧文明と 戦ったから 死に絶えるまで 戦ったのだと 思う と

答えた : 

どうも フランス人は 思慮深い

6)で 子供たちが オトナシく 聞いているのが 何とも 素晴しい


1)平和公園の鳩に エサやりを 楽しみしている 同じ年ぐらいの方が居る 

「買って来たばかりの  食パン」だよ と言って 千切って 投げている

この食パンをめざして 家の2匹のチワワが 喜んで 鳥の間に入って エサを漁る

2)食パンは塩が入ってるから  添加物が多いから 食べさせないで と 

女房から 言われて居るのだ

でも 犬の欲望は 強く 自分で  鳩の間に 割って 入って 食パンを 漁っているのだ

3)その方に  食パンを  鳩に 上げてる方に 「女房に怒られますから」と 言いながら

「 塩分が イケナイらしいです 」と 付け足すと ケラケラと 笑われた 

その方の 言うのには

4)今の若い人は 病気にかかる前に  あれが悪い 此れが良くないと 

 健康管理された結果  自分で 体を治す 方法が 身に付かないのかも と

でも  僕らの様に 小学校の頃に 頭にDDTを 撒かれて

虫下しを 飲まされて トイレで 回虫が出て来るのを 経験した 

栄養管理も 塩分管理も されて無い方が 健康な気がする

自分で 自分の体で 覚えなきゃ 健康管理も 出来ないよ 

6) 貴方もそうだろうが 僕も同じ世代だ

自分で 自分の管理が 出来なく成ったら

早く  あの世に 行かないと 

老人ホームで 缶詰にされて 居る 事になる

この世の中 そんな老人だらけに 成る前に 死んだ方が と 言われる と

7)反論も出来ず  パンを 喜んで 食べてる 犬を 止める気が 失せてしまう 

1) 30年程 前、父母が亡くなったので、 岐阜の山奥の 母の実家の村へ行った

その村の 川に 思い出があったので 少しだけ残りの骨を 散骨しに行った

田舎の村の集会場に泊めてもらったら トイレが 家から離れた 渡り廊下の 厠だった

2)で 思い出でが 蘇った そうだった 僕が子供の頃 昭和30年頃(64−5)年前に

お爺ちゃん家に 最初に泊まりに行った時 夜の渡り廊下の先のトイレまで行くのが

僕も 恐かったのを 思い出した 

あの時の 僕でさえ 渡り廊下の先のトイレに 驚いた 僕の息子は 尚更だろう

3)やはり 連れて行った 息子(幼稚園ぐらいかな?)か  

離れの渡り廊下の先の 薄暗い電球のトイレに 行って 

怖がって帰って来て

「パパ ここに 泊まるんじゃ無いよね」と 言っていた

4) 雪隠(せっちん)へは  雪に隠れるように 大小便をしたから そう名前が 付いて

 厠(かわや=川の家屋)から名前が付いたのだろうな と 勝手におもう

なるべく 言葉 だけでも 上品にしたかったのかも

5)英語を混ぜて言うのが かっこ良く成って  WC だの トイレだの  になってる

時代は変わる元には 戻らない 言葉は 記憶の中だけかも





被爆 トイレ  雪が舞う太陽出てる 水曜日
1)犬に待っててね と 言いながら 寒いので 僕がトイレに入る

平和公園には トイレが 多いので 助かる  

犬はトイレは何処でもできるが 人間はそうは行かない

2)昨日は 天満町まで 犬を歩かせたので 往復の際に 平和公園を西に抜けて

本川公衆便所なる 被爆トイレて 往復 2回 利用させてもらった

3)海外に 旅行に行くと 何時も トイレに 困る

トイレがしたいので 喫茶店に入ると coffeeを飲んで また 行きたくなる

の繰り返しだ

4)日本には 戦前に こんな立派な トイレが有ったのか と 感心する

また 街の中心の 歓楽街に 入る 手前の 川の土手に 公衆トイレを 

用意して おいた 当時の 広島の 先進性に 何となく ウレシイ

1)前に会った キリスト教の勧誘の方が  向こうから 歩いてくる 

今は 平和公園で 行き交う人も少ない   この方々は 熱心だ 

何時も2人なのに 今日は 3人だ 大柄の外人( 多分20過ぎ30は超えてない)が一緒だ 

この外人が 日本語で一生懸命 話しかけている (彼女の 日本語の 練習台かな 僕は?)

2)しかし 外人の日本語を話そうとする 努力は分かるが その日本語は草臥れる

 「ネー英語でも良いよ」にした    すると 堰を切った様に 早口で 英語を喋りだす

僕は 「一寸待ってくれ 英語は ゆっくりなら 理解できるが 

貴女の若さと速さには この73才の  僕はついてイケナイ」で 逃げる

3)しかし 聞いてると

 「神がないと 人間は自分勝手に何でもする まるで 悪魔の様だ」と言う

論理に聞こえる

4)どうも僕は 反論するくせがある

神があるから 悪魔が有るのではないか? 

この世の不公平を 悪魔として 自分だけはその悪魔から逃れる為に

神が産まれたのではと 思う と反論しても 英語でも(多分 日本語でも) 噛み合ない

5)仕方ない

多少太ってるけど 若い外人の女の子が 散歩の途中で お話を してくれた

英会話の練習もできたと 思えば 上天気でも あるし 満足しよう
1)34−5年前の話だ アフリカの アンゴラと 言う国に 居た

その国の 職工さんを 訓練する為に 日本に呼んだ

2)住友商事が売り込んだ 電話機器の 操作に慣れてもらう為だ

で現地で 職工さんに 慣れている 僕が 日本の滞在中の 世話と通訳をする事になった

3)研修中(月曜から金曜)は 工場で 食事が出るし 寝る所は工場の寮で 良いが

土日は自由行動だ 寮は朝飯だけだ 昼と夜は寮の食事がない

外食をしなければならない アフリカのアンゴラが お金がない国なので 昼飯代に事欠く

勢い 吉野家の牛丼ていど で 我慢して 貰わないと イケナイ

4)ここで 普段 おとなしい アンゴラの 黒人が涙をこぼさんばかりに 僕に詰め寄る

「おい 浅井 肉の少ないのも 薄いのも 脂の多いのも 文句は言わない

俺たちは 貧乏だ 日本程 金持ちじゃない」

「でもな 肉に 砂糖をかけるな、何だ この 甘い 肉は、 肉は塩だ 決まってるだろ」と

5)俺たち 黒人は サトウキビばかり 作らされてきた 何が無くても 砂糖だけはある

折角 独立して 日本から素晴しい機械を買って ようやく 肉が 食えると 思ったのに 」

と 僕は返事のしようが無かった


平和公園に犬の散歩に出た

1)仲の良さそうな若者が 2人で話してる  女の子はスカーフでアジア系だからイスラム教なので インドネシアからだと思って話しかけた

仙台からインドネシアの女の子が来たとの事 男の子は広島の西条(東広島)に居ると

2) で日本に3年いて日本語を勉強してるけど 難しいと  つい英語で話しちゃうと

授業がないので 仙台から 出て来た 昨日の地震に遭わなくて ラッキーだったと 話がすすんだ

4)良いね仲良くて と言うと 二人が微笑んだ

日本は 2次大戦までは 男女は 勝手に 話しては イケナカッタ  んだ

男言葉と女言葉があって 

書き言葉も   女の人は 平仮名と  男が使うカタカナの2つに分けてあった

5)戦争に負けて 偉い方のカタカナを 英語の フリガナにした と 言うと

そんな 講義 聞いた事無い と 言われた



1)平和公園で ドイツ人のペアに 合った どこから? と聞くと

ドイツの 南の方だと 言うので 昔 ドイツの温泉の バーデンバーデンに 行ったよ と 

答えると 嬉しそうに 犬を抱いてくれた

2)もうじき ドイツに帰国できる 筈なのだが 日本から 出れずに

広島まで 来たと 

3)日本は外国人に 優しい国だね と

それに 日本人だけだね 

公園も 綺麗だし ゴミも落ちてないし と 褒めてくれる

4)朝から お年寄りの ボランティアが 元気だからだよ と 言うと

ドイツは 移民の人の する仕事だ と

イヤイヤ お年寄りのボランティアは スタイルは上等では無いが

また 払う金額も ごく僅かだが キチンと仕事をしてくれて 感謝してるよ と 言うと

尊敬される お年寄りが  朝から 作業着で 掃除? と 驚かれた

僕の 英語の 説明が 悪いのかな?
犬を連れて歩いて 昼に フランス人と 話した  曰く

戦争で負けて 廃墟に成った はずの 広島が 何でこんなに綺麗で しかも 

犬を連れた一般市民(僕の事らしい)が丁寧に にこやかに 話すんだ  から 始まった

1)日本の 原爆の公園は 綺麗に掃除してある 水もきれいで 水鳥も飛んでる
  
 周りのビルも高く  一般の街の人も沢山居る 建物も 綺麗だ    で

 原爆の展示場に行くと   焼け野原の 戦後の 広島の写真がある

2)あの焼け野原が 何で こんなに 綺麗な街で 清潔な公園で 浮浪者も居ないんだ

日本と 言う国は 汚いもの 隠したいものが 無いのか? と素直に聞かれる

3)彼が言うのには

アメリカに 冗談で作った before /after 使用前/使用前の 写真がnetに乗ってた

一つが 広島の 原爆直後 と 今の広島 

もう一つが アメリカの自動車産業の 

繁栄時のデトロイトの工場と 今の死人は居ないが 閉鎖された工場の廃墟だと

此れが  時間が経つと 良く成る日本と    ダメに成る アメリカの差だと

4)フランス人と言うのは 2つの文化を 比較するのが 旨いのか

客観的に 物を見る目に長けているのか

言われれば 何となく 納得し しかも  丁寧に 説明してくれるので 本当かと思う


僕の 高校時代 55−60年前だが 

JR(省線と言っていた)で新橋ー蒲田を通学していた

1)ラクビーの練習は 月曜を除いて 毎日だった  

2)練習の帰りに 草臥れるので 電車に座りたい でも

 座ってしまうと  寝てしまって 蒲田で 起きれない 

3)川崎まで 行って 戻ってくるのを 何回か 繰り返した

駅の間隔は遠いし 腹は減るし 家までは蒲田からバスに乗るのが残ってる

だから 蒲田で おりるのを 失敗すると ガッカリする

4)何回かの失敗の 後 つり革にすがって 立って寝る事を覚えた

何の特技でも無いが 本の入った鞄と 汚れたラクビーのジャージの袋を

足の間に挟んで つり革に つかまり 寝ていた


50−70年前の話で 申し訳ない

1)70年前 僕が産まれて直ぐ 母がサナトリウムに入ったので 僕には乳が無かった

 田舎で 乳母は雇えず 貰い乳も 毎回はできず  山羊の乳で 僕を育てた と 

父は言ってた 

2) 暇な田舎の診療所だったから  俺が 子守りをしてたよ と

でも 父が僕を大事にしすぎて お日様に あまり あてなかったらしい

3)僕が2才頃 漸く母が サナトリウムから帰って来て

この子 足がX-脚だ 如何しよう となった と 言っていた

ナカナカ ハイハイも ヨチヨチもできなくて 心配したと

勿論 運動神経も 鈍かった

4)でも16才で  高校に入って  今まで どの運動会でも

徒競走が 一番ビリの 僕が ラクビー部に入ると 言い出した時

父も母も 大丈夫かと 何度も 心配し 二人で何度も顔を見合わせていた
1)昼に大根餅(おろし大根と白玉粉)が 食卓にでた 旨かった

で思い出した 古いNHKで 泉ピン子が  おしんの母で  冷たい川に 入る シーンを 

子供の口を 減らすため 堕りないか ? と 思い 川の水に つかるシーンだ

2)この おしん が流行った頃  ある日 当時 60過ぎの 母が 僕を呼んだ

「ボーヤ (当時35−6才だと思うが 僕の事) おしん を見たかい?」と

3)僕が「NHKの朝ドラなんか 見てないよ」 と 答えたが 

母の目が潤んでる エッ と 思って 「どうして」 と聞くと 母が 語りだした

4) 結核で サナトリウムに入ろうかと 思ってたら お前が お腹に でき 

岐阜の山奥なので 堕しに 名古屋まで 出る お金も ないし

堕り無いかなと 思って 夜 一人で  川の水に 浸かってた と

5)原爆のあと 広島は 都会で 食べ物がなかった ので

 母方の在所の更に山奥の 田舎に入って生きていた

米と野菜は 有ったが  魚も肉もなかった 

その時に お前ができた  川に浸かっても ナカナカ おりない

6)産んでみたら  ボーッとした 赤ん坊で  ドウなる事かな? と 思った 

お腹に 居たときに 苛めて 酷い母親だと 思ったと

7)でも 産むと 下から押されてた 肺が 開くので 

結核が 酷くなり 

お父さんに 預けて 直ぐ サナトリウムに 入院した

8)今は 食事でも あれが不味い これが嫌いって 言ってるけど 

そんな時代だっよ お前が産まれた頃は
1)安田講堂  機動隊突入僕の大学3年の冬 お正月開け だった 

この52年前の 昔話を思い出しながら  N先生と 今の韓国について話していた

2)当時の 日本の不安 「アメリカに頼ってるだけで良いのか」という不安を 背景に

 政治や権力の中枢から 外される もしくは 経済の担い手に成れない  と 恐れる

 大量の若者を(段階の世代と言う  年間260万人)の就職先の 不安を

 朝日新聞と 朝日ジャーナルに 代弁してもらって居たのではないか

3)僕は この動きに 同調したのだが

途中で   尻尾まいて 逃げて  住友商事に入り  ブラジル インドネシア アフリカと

歩く間に 忘れてしまったのでは と思う

4)同じ事が 今 韓国で 起こって 居るのでは  特に

韓国人は 米軍の影響もあるのか 騎馬民族なのか  100% Yesか 100% Noかで

動くので 今 揺れ幅が 大きいのでは と  教えてもらった
1)平和公園に 殆ど毎日居る ボランティアの Mさんが 言うのには

原爆に 高度(爆発の際の)をしらべる為に 八木アンテナが付いていたと

今日 聞かされた

2)でも 展示室の 原爆の模型の 表面にアンテナらしきもの 見た事ない

で エッ 本当 と聞くと

アメリカに 少しでも不利な情報は 日本は言わないで 隠すのですよ との事

3)負けたし 75年も経ったし 今更 忖度(そんたく)しても と 思うけど

いや お役所の方は 堅いですよ

 「アメリカさん に 不愉快な 思いを させる 可能性のある 展示は無いですよ」と

4) 良い学校を出て 良い就職先(県庁 等)に入ると

他人を非難するような 事を 慎むのが 習い性となり  綺麗な映像はできても

悲惨な光景は見せないと なるのだろう

1) 公園を散歩すると 餌やり してる方に お目にかかる

2)雀が 手に乗るまで 色々と試されてる方もいる

    鳩 も群れてるし  背の高い 鷺も 僕の犬が 間近に近づくまで 動かない

   勿論 水面の 鴨も 土手際まで 寄って来て 待ってる

3)餌あげを非難するか 禁止するか 今後 ドウスルか 知らないが

 8月6日の原爆の日には 鳩が沢山飛ぶ (今年は飛ばなそうだ)

原爆の日の 鳩を 飛ばすのは 何か 良い事を した気がするが

4)でも 本当に 良い事なのだろうか あの準備には 大変な苦労があるだろう

 鳩に餌をヤラナイで 下さいと 言う 張り紙を見る度に

 原爆の日だけは 良いのかと  思ってしまうのは 考え過ぎなのかな

5) 日頃 相手のいない 孤独な(勝手に決めつけてはイケナイが)中年の男性が

(なぜか女性の餌やりは 少ない) 心の癒しの為に 多少のフン公害を 引き起こしても

政府や公務員の 無駄? 派手な 演出の為の 出費より 少ないのでは と 思ってしまう
1)上天気なので 犬が朝から 散歩に出たがる

1才のハナ子(華子)も 9才のシュク(祝)も 一緒に 久々に2頭で出た

2)1才ハナ子は 初潮を迎え たので 病院で 不妊の手術をしてもらったら

1週間程 家を出たからなかった でも 昨日から 走りだして 今日は元気だ 天気もよい

3)で原爆ドームの前で 女性5人程に 囲まれて 「キャー可愛い」までは 良いのだが

僕は原爆ドームの案内は できない(被爆2世だから 多少知ってるが イイカゲンだ)

4)すると 助け船がきた   赤いジャンパーで 案内としては 超一流の Mさんが

顔を出してくれた 「助かった」と 思った 

今まで 生半可な知識で 学生さんに 偉そうに話をした 自分が  

今 思い返すと「少し 恥ずかしい」


宗教に 追っかけられた ので 

父母に頼った  のかも 知れない このblogは

(1)父母の遺言で 骨を 海にまいたのは 25年ほど前だ

 墓が無かった訳ではない  父母は分家なので 戦後に 自分の お墓を 用意していた

(2)母の死後 母の遺骨を 手放せない父は 

納骨を迫るお寺に嫌気がさして来た

(3)死ぬ少し前に 母さんの言う通り 散骨にして 海にまけと 僕に命じた

「南方の海に(父の居た ガダルカナル や パラオ の事だろう) 

遺骨も墓も無い 兵隊さんが 一杯居る

原爆の時は 本人も遺族 どこに 居るか 分からない 死体が 山と積んであった
 
生き残った 俺たちが 自分用に 墓を建てるなんて 死んだ人に申し訳ない」

(4)母さんと俺の墓は要らない 骨は海にまけ  

お前の名前を 洋としたのも 縁かもしれない

これが

父が 亡くなる 1ヶ月ぐらい 繰り返し 僕に 言った 言葉だ




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