9時に病院に入った、血圧をはかる11時に診察だ、特に異常はないと、12時に肺活量の検査、

 肺活量なんて検査するのは学校の時以来だ4200cc有ると聞いて走っていた甲斐があったとおもう

 昼過ぎにベットを割り当てられる15時に毛を剃りにくる。17時にお風呂だ18時が食事で21時が消灯となる

 女房と久しぶりにユックリはなす。お風呂から上がると娘が来ていた。食事の時に誰か居ると楽しい。

 明日から手術まで絶食だとのこと

 
 久々に学校に学生が溢れてる。4月のこの頃はコンナニ学生が居たかと思うほどだ。チャント試験を受ける頃には少なくなるのだが。

 ご挨拶の仕方を知らないというか、歩いている年寄りは「先生」で「先生は使っても良い人間」と刷り込まれた新入生かいる。

 「先生、つぎ何処?」と聞く「何の次?」と聞くと「レントゲンの次」と言う「普通は次は内科検診だろう。」と答えると「それ何処?」となる。

 「悪いけど知らないな。他の人に聞いて」と答えるとフンと顎をあげる。

 悪気はないのだが、学校なら今までと同じ事が起こるべきで、皆が同じ事を同じ日にすると思い込んでいる。

 「コイツ先生のクセに朝の朝礼をサボったんか、学校の行事を知らんと。」みたいな顔をして僕をみる。

 毎年同じだが顔が若い

丸善 丸の内

2009年4月6日 日常
 東京駅の丸の内北口を出るとホテルと本屋がある。丸善の丸の内店だ。

 この4階に喫茶店があり隣は洋書が置いてある。この4階の場所は20年ほど前に女房と一緒に勤めていた場所だ

 当時はJR本社ビルだった。作りの立派などれだけ爆撃されても壊れないというほど柱の鉄筋が入っていたと思う。

 今、大きなビルが林立する都会を歩いていると、昔しニューヨークに行った時に気おされた事を思い出す。

 でもあのニューヨークもワシントンも不況の元凶である。山、高きが故に尊からずと言いたくなる。

結婚式の2次会

2009年4月5日 日常
 春の大安の土曜日の椿山荘は大勢の人だ。結婚式が幾つもある。目白の駅から学習院の桜を見て川村学園の前を通り、

 千登勢橋から早稲田に行く電車を下にみて、昔の田中御殿の前を通り東京カテドラルの向いが椿山荘だ

 近代の歴史の道を歩きたく3時の結婚式に2時に新宿をでて目白からワズカに降ってくる桜の下をノンビリと歩いた。僕の青春の道でもある。

 スピーチをする自分に30年前の生意気な自分が顔をだした。イケナイ僕はもう60歳だ。2次会に誘われる。気持が行きたく自分を抑えるのに「力」が要った。

 夜桜に雨でも降らないかと心配しつつ、慶応ラクビー部の仲間を羨ましく思った。思ったところで僕より30歳は若い。僕にもこの時期が有った。

代ゼミ

2009年4月4日 日常
 JRの友達と待ち合わせで東京駅から電話すると「浅井さんJRは新宿ですよ。」と言われて、高いホームから中央線にのる。もう赤くない。

 新宿の南口は3つになってる古い南口と南東口それに甲州街道の陸橋を越えたサザンクロスの口という3つだ。

 スタバの前で入らないで待っててと言われ、心配だから同じ場所に立ってる女の子に{スタバって此処だけ?」と聞く。

 「浅井さん上京してすぐ軟派しちゃいけません。」と昔の友達にあった。

 代ゼミの脇の焼肉やに行ったが、店の狭さは昔どおりだが脇に建つ代ゼミの立派さに目を奪われた。
 「先生、何しとった?」と学生が戻ってきた。新学期の始まりだ。履修届を出す日だ、教室は何時ものように混み合っている。

 「挨拶」のスピーチがある。いつも通りに騒がしい。コンナ元気はやっぱり若さから出てくるのだろう。

 「先生、やせた』とか 「先生、太った」とか言われるので「おー髪の毛をきったな?」とか「色を染めた?」とか聞いてあげなければ成らない。

 「おーヘヤースタイルを変えたな?」と言うと「可愛いじゃろ、私」と返ってくる、もう一回次の可愛い子ちゃんに「ヘヤースタイル変えた?」と聞くと

 「先生、前学期も同じ事を言いました、私は何時も同じ髪型です。」とヤラレタ

荷物がデカイ

2009年4月2日 日常
 韓国からの留学生を迎えに11時半に広島駅に出向こうと思った。処へ電話が鳴る。13時半に着きますとの事。

 連絡してくるだけ賢い。この学生はヤルナと思った。海外で電話をかけるのはお金の入れ方も心配だし、電話口の対応も心配なのに、こいつは凄いと思った。

 博多へのフェリーか下関へのフェリーのドチラカラに乗って日本に着き、国鉄の駅まではタクシーで行き、それから新幹線で広島だ。

 乗り過ごさないか心配だろう。と思って1時半に駅で待つ。1時45分ぐらいに大きな荷物が6つほどユラユラしながら来た。「アー韓国の学生だ。」と思った

 そういえば、僕が子供の頃の日本も大きな荷物を持って旅行した。出迎えの人が荷物を運んでくれ「ホット」した事を思い出す。

 宅急便など考えもしない世の中だった。

テキスト作成

2009年4月1日 日常
 コムでギャル損、アナスイ?そりゃナンだ?と聞くと「先生、これ常識ですよ。」と来る。
 
 コムでギャルソンぐらいなら何となく記憶がある。多分「男の子ぽい。」と言う程度のフランス語だろう

 アナスイと言うと穴吹工務店とか酔心料理学校が一緒に成ったと思う程度だ と言うと「先生、それを講義で教えて下さいよ。カタカナ覚えるの大変だから」とくる

 看板のカタカナの意味が分かると「カッコイイー」になるからお願いしますよ
と続く

 学生に言われると引けない僕だ 少しづつ講義にいれよう

 

餃子の王将

2009年3月31日 日常
 夕方の5時から呑み始めたと思うが、帰りは10時を回っていた。人数は最初は男の4人で話していた。詰らなくは無いが殺風景だ

 7時頃に卒業生で中学の先生をしている女の子が加わり、話が元気になりだした。
僕がオーストラリアのお土産をわたし

 手持ちの小型パソコンで写真を見せて解説し始めると「ああだ。」「こうだ。」と話がはずむ

 結局帰りにバスが無くなるまで呑んでいた。タッタ一人の女の子だが座持ちが良いと助かるオジンどもであった。

 今日は卒業生の女の子に付いてる日だった。

 昼に4月から新入社員となる卒業生とデートをした「最初の給与で先生にごちそうします。」と言われると僕も楽しい。

親父は要らない

2009年3月30日 日常
 日曜日に朝早く6時頃に目覚めた。日曜日は僕を除く家族、女房と息子と娘はユックリ起きる。ユックリと言っても女房は9時には目を覚ます。

 いつもは僕が皆をおこす役目だが、日曜は一人でパソコンにむかう。10時には朝ご飯を食べ終わり。久しぶりに図書館に出向く

 お昼に家に戻ると、息子も娘も外出の準備をしている。お腹もすいていないので、慌ててご飯を食べる必要も無い。

 女房が2時過ぎに昼のスパゲッティーをつくる。もう日曜日に父親は要らないのだろう。

風邪を引いていてるので遠くへは外出したくないが日差しもよいので、近くの商店街まで素見し(ひやかし)に行った

風邪っぴき

2009年3月29日 日常
 電話が鳴った。娘がでて「風邪っぴきのパパなら居るよ。」と電話口ではなす。インターナショナルスクールで育てたのが、色々問題がある

 この娘が「父は今、風邪をひいておりますので、声の出が悪いと思いますが」と答えられるように日本人に戻すはまだまだ時間がかかる

 薬も効いてきたので学校まで出かけるが、今ひとつ元気がでない。4月18日のラクビーの試合は諦めなくてはイケナイだろうと自分の欲望の強さを反省する

 それよりも4月10日の講義の休講届を出しておかなければならない。オーストラリアの出張報告も書かなければいけない

 猫に餌もやらなければいけない。とイケナイ事ばかりである。出来ることだけをしないと、出来ない事にイライラしても仕方ない。と自分に言い聞かせる浅井であった。

主治医

2009年3月28日 日常
 一昨日は広島の個人病院では一番大きいと思われる土谷病院に行き、鼠径ヘルペスの入院手続きで午前中から午後2時半まで一日かかった。

 病院の待合室は細菌が沢山飛び交っていたのだろ、昨日は鼻声で頭がのぼせる。研究室にきた可愛い子ちゃんが「先生 風邪?」と言う

 こういう時に主治医は助かる。学校を終えて主治医のもとにむかった。僕は家の近くの杉本耳鼻咽喉科さんを僕の主治医と僕が勝手に決めている。

 ヘルペスでの入院の事、息子のインフルエンザの事、色々はなして「お大事に」と送ってくれる

 病院は混んでいるのだが、病院での待ち時間は殆どない。病人を待たせないと言うのも医者の技術の一つだと思った。

 ただし、外科の手術はやはり大きな病院に行ってしまう。
 大病院は手間がかかる、朝の8時45分に行って、午後の2時半に入院の日程が決まった。

 手術をする先生の日程を決める前に、検査が始まる。「元気ですか?」と聞かれるから「脱腸(ヘルニア)以外は元気です。」と答えると

 「じゃ少し歩くというか走りますが、負荷検査と言って 走りながら心電図と血圧を測りましょう。」とチューブを沢山付けてランニングをする。

 「良い値ですな、手術をしても大丈夫な体力がありますな。」とくる「それはソーダ。だからオーストラリアに旅行して来た。」と口では言わないが頷く(うなづく)

 でも万が一を考えて血圧を下げましょう、だから手術の日程はこの日にしましょうと言う事になる。

 血圧を下げる薬が出るのかと思っていると。食事療法でいいですよ。手術までお酒と塩辛い物を控えておいて下さいと薬嫌いな僕の味方の先生だ。
 
 4月の7日入院 4月の8日手術 12日に退院となった
 30歳になる前にワーキングホリディーで海外に行きたかったのです。お金もためました。船に乗って食事の賄い(まかない)もしました。

 イタリア料理のメニューも頭に入りました。後は英語が出来るようになれば、僕は何処でも生きていけます。と5年前の卒業生が、出発前のお別れにきた。

 明日から青春切符18で鈍行で成田にむかいます。時間はあります。若いというのは素晴らしい。自分の夢に向かって行けるのだ。

 そう言えばこの台詞を15年ほど前に聞いた事がある。その時、彼はラクビーがしたいとニュージーランドに行った。

 彼は今では小さいながら電話の転送を仕事として会社を経営している。

パソコン

2009年3月25日 日常
 多分10年ぶりぐらい位の海外出張だろう。今回のオーストラリア1週間の旅は。商社マンだった以前の事を思い出していた。

 そうだ、ホテルにチェックインする際に鞄が安っぽいとボーイに軽く見らる事を思い出した。

 それで女房から「中身より鞄が重い」と不評の皮の手作りの大型バッグとお揃いの持ちにくい嵩張る小型バックにした。

 確かにボーイの態度も受付の女の子の値踏みも今回は満足できる気がした。思いバックを苦労して持ってきた甲斐があったと思った。

 でも単に僕が年齢が行っているから形だけでも尊重しようと思ったのかもしれないが、自分の満足は大事である。


 するとボーイが「お客様、パソコンはご自分で運ばれますか?」とメルボルンとシドニーの2つのホテルで聞かれた。

 背広を着てビジネスマンの形をして立派なバッグを持っていても、パソコンを小脇に抱えないと今は流行らないようだ。

 ホテルの前のインターネット。カフェに駆け込むようでは安めの営業マンなのだろう、ホテルの部屋にはモジュラージャックや10Base Tのソケットが一杯整備されていた。 

 次回はパソコンを持参しよう

卒業式

2009年3月24日 日常
 卒業式と謝恩会に間に合うようにシドニーを後にしたので、帰国が日曜日になった。

 日本人は律儀なのだろう。日曜日に日本に帰る便は満席である。で月曜日の卒業式は父と母がかなりの数で居られた。

 大学なのだが、父母に知り合いも居るので、お父さんやお母さんにご挨拶する事になる。

 で午後からは着替えて謝恩会になる。女の子が綺麗に着飾るので見ていて楽しいし色っぽい。

 シドニーでの高校生のように華やかだ、シドニーの大学生はやはり社会人のようでかなりの年齢を感じるのは東洋人の僻み(ひがみ)かも知れない。

 たった1週間のオーストラリアだが、頭が豪州と日本との比較になってしまう。

Duty Free

2009年3月23日 日常
 メルボルンの入国審査に向うと 「ラストミニッツデューティーフリー」と売店がならぶ。

 それはそうだ。此処で買い物しても、まだ法律上は無税なのだ。間違いは無い。まだ入国してない。

 でも僕は日本人なのだろう。お役人の目の届くとこで売店が有るのは何だか異和感?違和感?がある。

 飛行機を降りて最初に歓迎してくれる所が無税の売店なんて、意外と良い国なのかもしれない。とオーストラリアに入国したのは、先週の月曜日だ

 

帰国

2009年3月22日 日常
 夜の1時にシンガポールをでた、飛行機は満員に近い。帰りを日曜にしたのがいけなかった。と思いながら、一杯のウイスキーで寝てしまった。

 温かいお絞りで目を覚まされて、朝御飯を運んでもらう。和食がありますが、と言われても、其処まで外国人を信用は僕には出来ない。

 7時ごろにポテトを食べて8時に福岡空港、9時に博多で新幹線 10時に広島でタクシーを拾い家に帰る

 夕方シドニーを出るSQのシンガポール航空の新型A380は、お遊びの松下(今はパナソニックと言うそうな)のゲームがいい。

 数独で遊んで、映画を2本と食事を2回と、食後の転寝でシンガポールに着いた。夜中の1時10分発の飛行機なのに、売店は閉まらない。売店では失礼だduty free shop と言わないといけない

裏千家

2009年3月21日 日常
 「貴方が10歳のとき、私は3人の子供を連れて日本に行き、下北沢の幼稚園に入れました。」と80歳は超えたロザリンが言う

 裏千家の豪州オーストラリアの家元だ。お家に招かれてお茶をごちそうになる。

 豪州はお茶の文化だスターバックスも有るが、何処でもお茶がでて来る。しかも日本の抹茶まででて来る。

 僕は下北沢から2つ目のの駒場東大前まで通っていたし、下北沢から3つ目の豪徳寺に住んでいたのでロザリンが懐かしがる。

 2時から居たのに気がつけば5時だ。一緒に居た美術のラクランがお茶器を見せてと良い出して片付けが出来ない。

 5時にホテルに日本に居た元の留学生のテーラーを待たしている。携帯で「今出るから1時間半は待っててね」と詫びる

ヴァレリーさん

2009年3月20日 日常
 Derrijさんが「私の上司だから」とアポイントを取ってくれたヴァレリーさんと会う。この2人が僕のオーストラリアの訪問だ。

 お茶がでて、チョコレートがでてヴァレリーさんの最初の言葉が「秘書が代わったばかりでお茶の味が心配です。」から始まった。

 広島で被爆の生き残りを父母に持つ僕は幸せなのかもしれない。

 会話は父の肺癌で死んだ話と母が僕に英語を叩き込んだ話をしていた。

 交渉は殆どなかった。2−3の小さな数字の訂正はあったが、

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