奴隷貿易のイギリス人の銅像を  海に投げ入れたと  英国のニュースがあった

ならば アメリカでは  初代大統領のジョージワシントンの 家を焼き討ちしないとオカシイ

と 思うのは 日本人の僕の勝手な妄想かも知れない

ワシントンの農園は 黒人奴隷で成り立っていた 

20年程まえに 息子を連れて ショージワシントンの家をツアーで訪れた

凄い 大きな 泰山木(マグノリアと言ってた)が何本もあり 大きな花が幾つも咲いてた

で 母が家の庭に植えた アメリカの木だと 言っていた 泰山木を思い出した

さくら も良いけど 私たちには 戦争を 思い出すからね  

花もアメリカみたいに 大きい方が良いよ と 言っていた

母は結核もあり 原爆もあり 72歳で 亡くなった 

過去を 暴いて 死者にむち打つのは 止めにしないと 中国のように 墓を掘り返して

骨を 潰さなければ 成らなく成る  せめて 死んだら 皆 終わりにしたほうが と 思うが



僕は 自分の性格が 銀行は向かない 証券会社はもっと向かない

官僚になるには 勉強が足りない メーカーさんに行くと 地方の工場に行かされる 

と 残る所は多少 英語なら話せたので 商社しか無かった で 三井 三菱 住友の 順に 

受けに行った 三井物産 行って 驚いた 文章が カタカナなのだ 

僕は 子供の頃から カタカナは 嫌いだった ヲ なんて 字は 誰がどう考えたって 分からない

で 行って 受付で 紙を渡されて 記入セヨ と 書いてあったので  あわないと思って止めた

で 三菱商事に 格好良いな 行きたいな? と 思った でも

ラクビー部の キャブテンが 受けると言う マネージャーも受けると言う

仕方ない 住友で 拾ってくれなければ 丸紅か 伊藤忠に 行こうと 思ってた

22歳で住友商事に入り 25歳でブラジルに出張に行かせてもらった

9時始まりの会社に 朝 8時からでて スペイン語を1年後輩に教わってた事もあり

また日本の製鉄所(新日鉄 住金 等)が 鉄鉱石を求めて 

ブラジルに進出しようとしてた背景も あった

当時の僕は そんな事 何も気にしてなかったし 知りたいとも 思ってなかった

ブラジルに 行って良いと 言われて 嬉しくて 仕事を片付けていたら

課長が 「何時迄 会社に 居るんだ  早く帰れ 明日は 会社の車が迎えに行くから」と言う

「勿体ないから 良いですよ 羽田 ちかいし 親父に 送ってもらいますから」と 答えると

「バカ 言うな、 お前を ハイヤーで 送り迎えするんじゃない

お前がハイヤーで 海外に出張するとなれば

 親父さんお袋さんも 鼻が高いだろ、 

親孝行の為に 会社が気をつかってるのが わからないか?」 と 言われ

アッ 俺は 馬鹿だったと 思った こんな 親孝行を 会社が助けて呉れると 思ってなかった



ブラジルに3年居て 帰国後 日本で1年居た時に 何とも カルチャーショックだった

もっとも 僕を受け入れた 上司も ショックだったのだろう 

1年で すぐに アフリカに出された

でも 嫌じゃなかったし 自由に動けるのが 楽しかった 

で 暇だったので 図書館で 調べ

大陸移動説 と言うのを その時 に 読んだ 

内容は 

アフリカとブラジルは 昔 は繋がっていた

大西洋の中にある 中央海嶺と 言う小さな 火山帯が 

出て来て 少しずつ アフリカと ブラジルを 分けた  

今も 少しづつ 離れているし 中央海嶺には 活火山が 海中にあると

だから 両方に 似た植物が あり ブラジルの海岸も 崖が 多く

アフリカの 海岸も 崖が 多いのだ と 書いてあった

海は 日本のように 川が海に流れ  砂浜が 有ると おもい込んでいる僕には

新鮮だった

そういえば ブラジルには 良い港が 少ない アフリカももだ 

しかも 海岸は 両方とも 切り立った 崖だ

日本は なんて 優しい 海岸線を もった 良い国なんだろうと 思った
何で ポルトガル語を 話す国が 

アフリカに2カ国あるんだ 東がモザンビーク 西がアンゴラと

を アンゴラで 聞いてみた  貿易省の 食品以外の担当のブランカと言う

真っ黒な叔母ちゃんだが 痩せて 教養は有った

すると 歴史だよと 答えが来た

アフリカは 崖の大地の上に有る その大地の 切れ目から 川が海に流れ込む所で

南緯北緯10度居ないなら スコールは有るが 台風は来ない 

淡水の川で無いと 海水には 船食虫が 居て港に成らない 

昔の木造船は 3ヶ月も海水につかると 貝もつくし 船食虫もついて 浸水しちゃう

で 淡水の河口が 有る事 と 南北10度以内の その条件が揃ったのが

アンゴラと モザンビークで 

そこを ポルトガルが押さえて 日本迄 フランシスコザビエルが来たと

へー 知らない事を アフリカで 習うと 思った
海の上に 鳥山がつ 鰯の群れ が居るのだ

すこし海の色が 変わって見える その周りに 水しぶきが 上がる よく見ると

時折 マグロが 跳ね上がってくる

この 風景が 泊まっている ホテルの3階の出窓から 見えるのが アフリカだ

しかも 湾の中だ  

で困った 鰯が 浜に逃げてくる それを拾いに ホテルの従業員が駆け出す

勿論 カモメも 拾いに来る 日本の田舎でも あるのかも 知れないが

受験勉強と 大学のラクビー以外は知らなかったので 

自然というものを アフリカで 教えてもらった 

本当は 神様を信じたと 言う 話しを書きたいのだが 

ナカナカ 神様まで 行かない
40年程 前に コマツのブルドーザーと KATOのクレーンを アフリカのアンゴラに  輸出したので

現地で作業員に 操縦を教えないと  クレーン車やブルドーザーを 通勤代わりに使う

不謹慎な従業員もでてくるので 日本から 訓練の先生方を読んで 僕の通訳で 訓練を始めた

で コマツの方が 50kmほど離れた標高1000m位の ブドウの果樹園で 仕事をしながら

教える事になり 一緒に出かけた

独立後に 久しぶりに 機材が入るので 現地の方に歓迎してもらって 

風通しのよい ベランダで 食事をした  その屋根に 藤棚では ないのだが

棚から下がる パッションフルーツを 初めて見た  黄色のプラスティクで できた

クリスマスの 飾りかと 思う程 ツヤツヤで 真ん丸で 輝いていた

自然の力に 人間の能力は 勝たない と 思った 

で 「食べるか?」と聞かれて 「喜んで」と言うと

鉈で 半分に割ってくれて 果肉を 吸えと 言う 

驚いた 頭にスーっと 響いた  南アメリカから 来たと 言われても

ブラジルで 食べた事が無かったので 驚いた

で 暫くして日本に帰って 

スーパーで 紫色のシワシワの お婆ちゃんみたいのを みて ガッカリした

アフリアの大地に 置くものを 日本で 楽しんでは イケナイと 思った

でも 懐かしく 買って来た

で 家で 食べてみた 

 懐かしい味は たしかに 似てる でも 頭に突き抜けるような 

スカートとした 気持ちの良さは 無かった  僕の中の パッションが 失せたと思った



もっともパッションが情熱だと 思っていたが キリストの受難が先だと 

分かったのも 帰国後だった 宗教ってのは難しい

2日程まえ 女房の 昼ご飯に  麦を入れた 炊き込み御飯がでた で頭が戻った

60年前の話しだ 南蒲田小学校から 私立の清明学園に 小学校の3年で 転校した

転校した 訳は また 何かの機会に 書きます

で お友達の家に呼ばれる事が 何回か有った 両親が医者だと 言う事で

勝手に 上流階級と 間違って呼んでくれる 家も 何件か 有った  

山川君としか 覚えてないがい その家に行き 帰りが 遅く成りすぎて 母に車で

迎えに来てもらった事があった、遅く成ったので 夕ご飯が出た

で ご飯を ご馳走に成った時の 僕の一言が 後で 波紋を読んだ

「ここの家の ご飯には 美味しい

家のは 平たくて筋の 入った つぶが 混じって 

此処の家ほど 美味しく無い 」 と 僕が言ったそうだ

後で山川にカラカワレタ「浅井んちは 麦飯だって」と 

池田首相の「貧乏人は麦を食え」も知らない小学校の3年で

家が 麦飯だったのさえ 知らなかった

 後で 父に聞くと  母さんがサナトリウムに いて お前を 俺が育てたから

 ビタミンB1不足で  xー脚に 成ったしまった 

母さんに 医者なのに自分の息子の事も分からないの と えらく 怒られた  

それ以来 お前の xー脚が治らないかと 麦飯にしたんだ

でも 結局 治らなかった と 

麦飯の 理由は 僕のXー脚で  親がスマナイと 思って 

家中で まずい麦飯を食べてたと 感謝できるように成るまでに

 多少時間がかかった
東京の 爺婆から なぜか みつ豆が 届いたので 頭が 昔に戻った 高校の時だ

日比谷高校は 遅刻坂の上にある のぼりも下りも 何とも 学校らしい名前だと 思った

高校時代に 赤坂の 立田野に アンミツを一緒に食べてくれる 女の子が居ないので

有名な店で もあり ラクビー部の練習のない 日に一人で入った 

すると 同級生の色っぽい女の子が 先輩と2人で 奥の席に居た 

その子は 山田五十鈴でも 嵯峨美智子でも 叶わないくらい 

美人と言うか雰囲気が有った

僕は 話しかける 勇気もなかった が 憧れの目で見て居た

2年になると よからぬ 噂が 聞こえて来た 

ある日 すれ違ったときに  目が合って 思わず 立ち止まると

流し目で  「私に さわっちゃダメよ」と言われて ドキドキした

ラクビー部について行く体力も 無ければ困るし 多少の勉強をしないと

授業もついて行けないので あんな美人とは縁がないなと 思って 日々が過ぎた

3年に成って直ぐだ 
美人の子がお父さんと思われる人と 遅刻坂を上がって来るのを 見かけた

 昼過ぎだった で午後のラクビーの練習に向かう時に この子だけ 高校の門の側に居た

「父と退学届を 」とだけ 言った で  「だから 言ったでしょ」と 目に書いてあった

お父さんが  多分 トイレにでも寄っていたのか 少し遅れて 建物からでてくると

僕と会話もしてなかった かのように 2人で 遅刻坂を 降りて行った

色彩兼備も 此処迄くると 身の破滅になるのか 

折角 日比谷高校まで 来たのに と 思った 

僕は 色恋に縁のないのが 幸いしてるかも


雨 朝から 本通を 犬の散歩道に 使わして 貰った  さて40年前の話しでアフリカだ

ジープに乗って 動物を追っかける サファリが アフリカに来た客人をもてなす

最大の遊びだとして  話し相手のシッコが手配してくれた 

銃を持った事が無い 鉄砲なんて撃てないと 言うと ガハハと笑われ 使う時に 教えるよと

朝早くと言うか 夜の3時頃に用意して 朝5−6時の日の出には サバンナで 獲物をまつ事に成った

で ジープで 出かけると 猿が「人間が来る 人間が来る」と 木の上で叫ぶ

この 林を抜けないと 狩りが出来ないと 猿に警戒信号を出されるとは 思わなかった

何を 撃つのかと 聞くと インパラという 鹿か イボイノシシが 食事には良いとのこと

ティモンと ブンバの ブモンのほう イボイノシシと言うらしい

で夜明けに サバンナに着いた すると 象の群れが居るのと 

一緒に行った 黒人が言い出した 彼の視力は7と言う で5km先の 象が見るらしい

シッコも 彼の目の力に頼ってる 象の群れに ジープ1台3人で向かうのは危険だと

で 象の群れを 避けて 別方向に 走る インパラ(綺麗な鹿)が居るので 近づこうと

しているのだが 近づく度にその度に 逃げられる   

此の様にと 書いてると 自分で目で見て 体験してるようだが

実際は子供の頃から 眼鏡の近眼で 僕は 言われた言葉に反応しているので 

「ほら あそこ」と言われても無いも見えない 

木の上で鳴く猿さえ 見分けられない ホコリっぽい田舎道を揺られて乗ってるだけだ

お昼に成る頃 熱くって 動けないし 何も捕れないから 帰ると 帰途を急いだその時に

デック デックと 呼ばれる 小型の鹿と 言うか 大型の痩せた犬と 言うか 

小さめの牛の足の速いのとでも 言おうか  そのディック デイックの10匹ほどの群れが

車の前を 横切った 運転していたシッコが アクセルを吹かし 追っかける

漸く 一匹を フロントで突き飛ばした

それが 朝から出かけて 唯一の 獲物だった


お尻は痛いし お腹は減るし ホコリっぽいのに 熱いし

近眼の日本人には サファリは 向かないと 思った
 


お袋が 結核だったので 僕を生んで直ぐ サナトリウムに入った

村で貰い乳をできる 手だても少なく 

牛の乳(ミルク)がないので 山羊の乳で育てたと父は 言ってた

当時は 母の病気が 結核だと 他人に言えなかった と 言ってた

大人になり自分の子供と一緒に 「隣のトトロ」を見た時に 

「七国山病院へ」訪ねて行くシーンが何故か記憶に残り

何処か心の底に こんな記憶が有ったのではと  自分の昔を振り返った

もう親父は死んで居ないが 聞けば キット

当時は 息子に結核が移ったらと 心配で  母さんは顔を見たがったけど

連れて行くなんて考えもしなかった と言うと思うが  

七国山のシーンは なぜか 心に響いた



結核は 当時は サナトリウムに押し込む病だったのだ 今のコロナに少し似てるかも

で コロナ対策が少し緩んだので

ソゴウ相互の6階の紀伊国屋に 本を買いにいくと 売らないとは言わないが

マスクをしてないと 白い目で チラット見て 下を向いたきり 顔を上げない

N−教授と話した 通りだ

戦後3回目位の 吉永小百合と 浜田光夫の 青い山脈で 
民主主義だ と叫ぶ 人達も

戦争中に 非国民だと 英語を勉強する人を 責める人達も

いま マスクをしてない 人を白い目でみる 人達も 

皆 同じ 日本人で 集団を守ろうと 言う人達なのだ と 言う事に成った

僕は アメリカに 戦争に負けて良かったと 言うと  今は白い目で 見られるのかも

原爆やむなし と言うと  アメリカに胡麻する奴と なり 

マスク無しは 社会犯罪と成っているのかも 


 
僕は 誕生日の お祝いを しないと 決めたのは 小学校の 終わり頃だと 思う

でも 女房の誕生日に 娘や息子や 女房の友達から 花や お菓子や 食べ物が届く

そのお祝いを お裾分けして 頂いているのが 心苦しいが 

今更 「誕生日だから レストランンでも 行くか?」と言い出せず 困ってる

で 僕の最初のお誕生日会と 言うのが 

60年程前の 小学校3年で 雪ヶ谷大塚の清明学園に 行った時だった

有った 幾つかの 家に 呼ばれていって 特に 覚えているのが

黒柳徹子の 双子の妹が同級生なので 久が原の 豪邸に 行った

セントラル ヒーテイング と 掃除機の吸入口が部屋毎にあって 

なにより 壁紙が部屋毎に違ってて 子供部屋の壁紙が 綺麗な花模様だった

 へー部屋ごとに 色と模様が違うと 驚いた

凄いとは 思ったけど こんな 映画の中の部屋みたいのに いて 落ち着くのかな? と思った

古くさい 田舎のお爺ちゃんの家の瓦と畳みと 土間と 台所の方が 

壁紙が綺麗にはられた お部屋より 落ち着いて見えた

あまり 驚かないので お誕生日会は1回呼ばれたきりで 2度とお声がかからなかった

3年で 東京の私学に転校して 文化の差が始まってると 思った

その最初が お誕生日会に 誰を呼ぶと 言うのが かなりの 話題である と 気がつくと

これ 何だか エコひいき じゃない  メンドクサイな と思い出した

僕を 最初の頃 いじめていた デブの東田に 僕は2ー3回は困ったし殴られたけど 

でも 手加減してくれて 話しを聞いてると 笑ってくれて 暫くすると

それほど 怖く無かった

ハーフ 茶色のちじれ毛の 漢字が苦手な 東田は

気がついてみると お誕生日会に 僕しか呼ぶ相手が 居なかった 

可哀想だと おもった

夏休みに  岐阜の田舎に行って 祖父母(爺婆)に この話しをすると

昔は お正月に お年玉だった

戦争に負けたからと 言って 西洋の真似して ドウなると お爺ちゃんが 言ってた

 ドンなに貧乏でも 年に1回ぐらい は 何とかなる 

でも チョコチョコ お誕生日会を やられたら 貧乏人が 可哀想だ と お婆ちゃんが言ってた

で 僕は facebookのお誕生日にも なにも書かないし 女房の誕生日にも

普通に 家で ご飯を 装ってもらって 食べている


フランシスコ(シッコ)の家には マンゴーの木が4ー5本 前庭にあり 一日に1個は 熟れ具合が良い レモンをかけて 丁度よい デザートになる レモンの木も生えてる

また玄関の脇には 小さい青い唐辛子(ペッピーノと言う)が一房生えており 食事の度に つまんで取って来きてお皿に載せ スプーンの背でつぶす

 僕は一回に2つも有れば 十分に 辛い

シッコの嫁さんはマリアは 僕が 昼に行くと台所から出て来て 「直ぐ出来るわ」と言って料理を並べてくれる

ブラジルでも 同じだが 食事の メニューは 週に7通りつで  曜日毎に 決まっている 

月曜日は 細切り牛の炒めとか 火曜日は 鶏とか

毎日 メニューを考える日本人は 律儀だな と おもう 

でそのメニューをブラジルとアフリカに居たときは覚えていたが

金曜日が 魚と言うだけで あとはわすれた

でもアフリカなので  何時も食材があるとは限らない

 取れた魚を 優先して 肉と魚は冷凍庫に閉まってあるのを
チョビチョビ食べてた

停電が多いので 停電した翌日は 腐っちゃうからと 凄く沢山食べないと 怒られる

日本から テレックスが来て 浅井 一人でアフリカに居て 気がおかしくならないか

寂しく無いか と心配してくれるのだが  お昼ご飯を食べる 決まった 相手が居ると

生活に リズムが出て来るので 気にならなかった
図書館に 本を借りに行って 司書の方と話してて  人間の脳は大きく成ってると

言う事に成ってるが 本当なのだろうかと 話しに成った

文化が盛んで 生産力が豊かなら 繁栄するはずなのに 

戦後 パンナムの飛行機が羽田に降り立ったときの あのアメリカの凄さからすると

現在のアメリカの凋落も激しいし

日本でも 政治家は寝てるし 高級官僚が  浅はかな 嘘を堂々と演じるし

魚は頭から腐ると 言うが 日本の将来が心配になっても おかしく無いと の話しに成った

で TEDと言うnet情報で 飼い犬と オオカミは 脳の大きさは オオカミの方が大きい

飼い犬は 警戒する脳 予測する脳 情報を収集する脳に 欠け

 判断を間違えると死ぬと言う勇気をもった決断もする 必要がないので

脳が小さく成ってると ヤギでも 牛でも 馬でも同じで 飼われている動物は

野生に比べて脳が小さいと

まるで 東大に行く学生は 紙の上の試練のみに対応して 其れ以外の 能力に欠けるため

正しいと判断する能力 思考する 脳の領域を欠いて来てるのではないか

此れからは 正規の教育で 網にかからなかった人の方が大事なのではと なった

幼児型の反応をして 人間に守られて 可愛がられると  其れに加えて

ドンドン本来の生活能力が 欠けて来る

ツライ経験をしないし 寒かったり  飢えたり 将来が不安な ロヒンギャの方々の方が

脳の大きさは大きく成っているのかも と 成った






熱そうなので 犬の散歩も早めに終え 図書館に 本を返すのを 明日にした

で40年前のアフリカのアンゴラの話しだ

仲よく成った シッコが  太刀魚を 釣りに行くから

夜の9時過ぎに来い 10時頃から夜中の2時頃迄 釣ると 言う

行くと 船に 糸が用意してある 彼の家のまえの小さな桟橋から 船に乗り 

30分ほど して川の河口につく 

無論 釣り竿もない 太めの糸に 下の方がアルミの細い線で補強してあり  

糸の先は 長い鍵のような ステンレスの棒で 

真ん中に  餌に成る 鯵(あじ)を縛り付けて 有る で その下に 3つ又になった 針がある

此れを 10 メーター程 下ろすと ガツンと 食いついて 下に引っ張られる

駆け引きもなにもない 餌をつけて 下ろせば かかる 

シッコに こんなに 簡単に釣れるのか? と聞くと

夜の暗闇で 魚(太刀魚)の居る場所を 誰が 探し当て そこに 船を止めておくのだ

また 釣れる時間も 波が静かなのを 誰が知ってるのだ と 鼻で笑われる

入れ食いなので 面白いのだが 小舟で 海面すれすれで  釣った魚の置き場も

ままらないい  シッコは 船の上で 立って作業してるが

僕は この小さな船では 立つ事も僕のバランス能力では できない

それに 日本の 事務所で働いている 僕には 

夜中の 小さな 明かり 一つの船で 座りっぱなしの作業になれて ふと気がつくと

周りに何も見えない 真っ暗な海が怖い

釣れるので 作業は幾らでもあるが でも2時間もしてると 

体力気力の 限界が きて ヘトヘトに成った

シッコが 僕を見て 笑らいだし

 「初めて漁にでる 日本人は 大事にしなくちゃ 帰るよ」と 船を戻してもらった

幼稚園に行く頃に 東京に出て来た 

父が30万円で土地代金込みで建ててもらった 浅井医院には

看板はあったが お風呂が無かった

昭和28年ごろ 70年ほど前の事だ 

で 春は麦畑 夏はトウモロコシ畑をぬけて  鉄工場の 相川さんに

母に手を引かれて お風呂をもらいに行った 

父は(子供心に分からなかったが 多分 遠慮して) 庭でたらいで体をこすってた

五右衛門風呂と いって お風呂の下に スノコが引いてあった

今は 女房と僕しか入らない風呂だ 72歳になって 初めて お風呂って 出る時に

中の 水滴を 落とす為に ぞうきんで 水滴を 拭き取るのだ と 言う事を 知った

随分と 女房に 世話になってたんだと 思った
目玉焼きに 鶏肉入りのサラダだ しかも 朝飯だ

これを 一緒に食べると 親子丼と 同じだと 昔の事が よみがえって来た

女房が どうしたの? と聞くから 初めて親子丼食べたとき 美味しかった 嬉しかった

焼き鳥と 半熟の卵が 一緒で なんて 豪華だろう と 子供の頃 思った

今じゃ 親子丼なんて 死語だろう と 答えた

すると  駅の黒板の伝言板が 復活した とTVが言う 

コロナのお蔭で 昔の良かったものを  思い出す事が 出来たかも

豊かに成りすぎて 鶏を殺しすぎて 卵を食べ過ぎて居るのかも と 思った

不二家に ローストチキンが ぐるぐる回るのを見て

戦争に負けると 言うのは こんなに差がつくもの物かと 驚いた

 USAは 鶏を 一匹ごと 食べてる

僕の 家は 卵ごはん の時は 鶏肉は無かったし 

鶏肉も 焼き鳥2本が オカズだった



爺が 古くさい事を 言い過ぎだろうか



住友商事から ブラジルで ポルトガル語を (多分僕は30歳位だと思う)覚えたなら

アフリカの アンゴラも ポルトガル語だから 行けと 言われて 

マイナーな言葉を 覚えると  こんな事に成るんだと 思ったけど 嫌じゃなかった

で アフリカのアンゴラへ行った35歳位だと思う

で 行ったら 現地のポルトガル人から

インドネシアがチモールを占領して 独立戦争したから アフリカに逃げて来た

と 言われて

チモールがポルトガル領だと言う事も知らなかったし

辞令を貰って アフリカに向かうまで

 ポルトガルの共産革命もアンゴラの独立も知らないし 

アンゴラに 行けと 言われた時に キット アンゴラ兎の居る トルコに行くのだと思ってた

僕はこんなに  世界情勢に マッタク 疎いのだが 住友商事が 行けと

言う所に行けば良いと しか 考えてなかったし 戦争で死ぬとも思ってなかった

アフリカも楽しかった と言うと「アホな事を言うな 手当てが下がる」と

上司(らしき)人に 言われたけど 怖がって アフリカに来ない上司なので 

あまり気にしなかったし

ポルトガルが 衰退して行くなかで チモールも アンゴラも失うので

日本の僕たちが 出て行ける

出て行ったら

シッコ(フランシスコ)と 友達になって 話しが出来る だけで 良かった

お昼ご飯は 彼が漁にでていても 出ていなくても

彼の家で 食べることにして 食事代として 肉を僕が負担する事にして

僕たちが外人だけが 買える 

外人用 USドルの専門店で 牛 豚 鶏を 日替わりで 買って行く事にした
10時に出ると 外はもう 熱い 犬が道路が熱いから 日陰を歩けと 言う

で 昼に帰ると パンに フムスが 出て来た 知ってる? と 聞かれるから 知らないと 答えて

食べ始めたら 思い出した アラブの マヨネーズだ 45−6年前に ブラジルに 行った時

ナゼか アラブ人に 気に居られ シリア-レバノン人倶楽部に 誘われて 良く食事した

家庭に行った事は 1度しかないが 子供は出て来ても 奥さんは出て来なかった

奥さんは 家を出ないが 物の言い方はかなりキツかった

で そのアラブ人が 良く食事に 付き合ってくれて 

日本だと ケッチャプに マヨネーズが お好み焼きの 味付けだが

ケチャップは あまり 普及してなくて トマトは 焼いて出て来て 

マヨネーズの代わりに ニンニクと豆の潰した フムスが 何時も添えてきた

この フムス(名前がナカナカ出て来なかった)が ひよこ豆から 作ると言う事は

思い出した  ひよこ豆が ビッコで ガルバンソと 言ってた 事も思い出した
犬の散歩から帰ると 昼ご飯に フォッカッチャと オリーブオイルが出て来た

頭が45-6年程前に 戻った ブラジルで食べてた 安い堅いボソボソしたパンだ

パンは 料理を頼むと 無料でついてくるし お代わりも出来るが

バターとマーガリンは 政府で値段を決めていて 無料では出て来ない

でも テーブルには オリーブオイルと塩が 無料で置いてある

で 肉が焼ける迄 無料のパンに 無料のオリーブオイルをかけて無料の 塩をふり

食べていると 肉が焼けて来る 日本食の半分の値段で 充分美味しい

お店のテーブルが 歩道に はみ出していて すこし 日差しが 強いのが 難点だが

また 店に入っても 冷房が効いてないので  風が当たる 道路の脇の方が 

多少は涼しい

で そのパンは フォッカッチャだったの? と 女房に聞かれ 「こんな 味だったよ」

でも フォッカッチャなんて 上品な名前は知らないな 

穴のあいた平たいパンだったよ 似てるよ此れに 

でも もっと安いパンも 有って

 玉蜀黍(トウモロコシ)のパンって 言うんだ

ウドンが 四角に成って ぺたぺたした パンだ と 言い出すと

もう 良いわよ 昔話は となった

昔話で 一番安いパンでお代わり自由なのは  水パン と 言って 粉と水とイーストだけで

作った 味の薄いパンだった フッカッチャ見たいのは トウモロコシの平たいパンだと

思うけどな?


< 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索