雨の日の 6時半に 本通を 犬と歩くと 知り合いの犬とすれ違う  

犬同士も 飼主もご挨拶だ

ホームレスの方の睡眠時間を 邪魔しない様に ユックリ歩く


で 40年前に 何処かの会社の開所式をサンパウロで 手伝う事に成った

でも 呼ぶ大半は日本人で 後は英語が話せれば 僕のポルトガル語の出番はない

僕が声をかけた会社が1社しかないので  入り口で その会社の社長を待ってたら

彼が 車から 降りて来て   驚いて 笑い出した  

なぜ笑うんだ と聞くと

 浅井 その待ち方は 良く無い  特に 綺麗なスーツで 入り口に 居るのは

良く無い と 言う 

何で 何で と 聞くと 

こ綺麗な 格好で 大柄(僕はデブで100kg有った)な 男が 玄関前で ウロウロしてたら

招待券を持たない人が 知った顔が居れば 頼んで 入れて貰おうとする  ズルコミ か

日本人の 用心棒が 衣装を着させてもらって 立ってるぐらいにしか 見えないと
45-年ほど前のサンパウロで 会社の隣のビル の1DKを借りた 1ヶ月の滞在なのだが

ホテル代が勿体ない しかも 飲み屋もホテルも近いので 僕は接待係になったのだ

有る時 10人くらいの 日本からのお客さんの接待をした時に

幹事の方が 皆さん パスポートを落とされては 困りますのでと 預かったのですが

では あす 飛行場で と 言って その幹事の方が 皆のパスポートの入った鞄を

飲み屋に 忘れたのです

翌朝 僕が 叩き起こされました

その日の 飛行場は国内便なのでパスポートは要らない

でも 幹事の方は 真っ青でした

「大坂から来た社長のパスポートも入ってる どうにかしろ」よ

で朝 僕を 叩き起こして 飲み屋を 開けろと 言う  本人は 店の場所も定かでない

初めて 行った ブラジルの店が 分かるわけ 無いだろうと 言う 

それもそうだが 朝6時に 起こされても 動き用がない

飲み屋は 昼しか開きませんよ と 言っても 幹事の方は 血が上ってる

僕が 飲み屋の前で 貼ってますから  飛行場に送りに行って 事務所に居て下さい

朝一で来るのは お掃除の叔母ちゃんで  現地語(ポルトガル語の ブラジル版)しか

通じませんよ 日本語と 英語が 上手くても仕方ないですよ と 引き取ってもらった

で お掃除の 叔母ちゃんを まって 引き出しの鍵を持ってる マスターを呼んでもらって

10時半くらいには パスポートの入った鞄を 受け取り 事務所に届けた

えらく感謝されると 思ったが パスポートの 入った鞄を 渡す時に

「返せ」 と  言われて 驚いた 

浅井 気にするな 気が動転してると 何を言っていいいか 分からないのだよ

ブラジルで 鞄が 有っただけ 良かった ブラジルの評判が 落ちないと

現地の所長が 肩を叩いてくれた
ラーメンの麺は 中国から 来てるから 

梘水(かんすい)を 入れて パーマかけたみたいになってる 

トンカツも トンって英語で ブタ肉だ ポークでも良いけど  トン方が庶民的な英語だ

カツて 正式には カツレツって 言って 西洋の物だ それに イギリスがインドで作らせてた

カレーをかけるのだ カレーは印度と言うけど 英国だよ

 だって カレーライスって英語だろ

と 子供の頃 は 思ってた

大学2年の20才で 中国へ行って ラーメンが出て来なかったので ガッカリした

25才で ニューヨークへ 行かしてもらって 和食屋でトンカツたべて此れ和食かと 驚いた

28才でイギリス行って インド料理屋で カレー頼んだら 辛いスープみたいだった

随分 いい加減な 考えで 商社に入って 英語使って 仕事してます と 言ってたな と

今更 恥ずかしく 思う
雨なので 本通で 犬の散歩を8時迄に 終わらせないと イケナイ 6時半に家を出た

40年前のブラジルの話しだ

日産のゴーンさんは ブラジル生まれの パリ育ちで レバノン人だ で 
日産の方には 申し訳ないが あの強引さは 僕は理解ができる

40年前に その強引な 人に 色々助けて貰ったからだ


この シリア(アッシリアかも日の出か)と レバノン(レかal=theでバノンが白い山)の仲間は ブラジルにかなりな移民を送り込んで 大きな 勢力を持っていた

シリアレバノン倶楽部で 男だけが 食事をしている あまり お酒は飲まない

住友商事の 仕事先の 仲介業者に シリアレバノン出身の 人が居て 

「日本の安くて良いものなら 何でも教えろ:俺が売るから」とまるで商社が要らないような

活発な男と 知り合いになって 小さな鉄の 部品(継ぎ手のベントとか ティー)を 

輸出するはなしを していた 1ヶ月しかないので 成約まで 行かなかったが 何度も 話し合った

すると 今日は 夕飯を御馳走する と シリアレバノン倶楽部へ 連れて行ってくれた

おい 浅井 お前の給与は幾らだ と 聞くので 30万(15万を倍にして見栄はって)くらいか
な? と 言うと

 じゃ2年分の給与を 銀行にお前の名前で 預けるから 転職して 俺の所で働け

嫁さんも 見つけてやる と 言われて  住友商事に入ったのに ブラジルに行って

現地企業に転職じゃ  住友商事に不義理で

尚且つ 育ててくれた 親が可哀想だと 思って 返事が 出来なかった

1週間程して 断ったが 

帰国前に「考え直せ」」と 自宅に招待されて 初めて 太った 奥さんの顔を見た


72才になったのに 息子28才 娘25才で 孫の顔は まだ見えない

代わりの訓練と 言っては 失礼だが 9才の犬と3ヶ月の犬の お守りをしてる

で 天気予報が 午前中の雨だけで 終わり ホットしてます 2匹 別々の時間が必要です

9才の犬の散歩は 朝 8時には 本通から 撤退しないと お店の方に 失礼です

夕方からは 晴れましたので  本通2件と  白島通りが 中央通になって 少しの所の流川の

3件の 犬屋に 顔をだしました 9才のお姉ちゃんは 

よその犬には 親切で 興味を示すのですが 

自宅で 追いかけられて 尻尾に じゃれつかれるのは 嫌なようで

顔に ヤダな と 書いてあり 散歩の時間が 僕を独り占め出来る時間なので

外に 居る 時間が 長く成ります



朝の8時には 犬の散歩を終えないと 登校時間になる 

旗を持った ご父兄の出番だ 雨の中 本通だけの 往復の散歩を 終える

40年程前の話しだ 場所は ブラジルのサンパウロとリオデジャネイロだ

昼間は仕事が有るから かまわないが 夕食から 時間が余る

23−4才で 一人で食事は ツマラナイので 会社のブラジル人の事務の女の子に頼んだ

 此れが大変だ 全部 断られる  日系人だと 日本語になるので 困るから

ブラジル人で 発音の分かり易い 女の子を 順に口説いたのだが

全部 断られる 理由を聞くと

ブラジルで 豪華な夕食(外人の入るレストラン)に男女2人で入ると 

その後のホテルを承諾したと 同じ事になる として 誰も一緒に食べて呉れない


大丈夫だ 飯だけだ ポルトガル語の練習だ と 言っても 了解してくれない

仕方ない女の子2人で 僕一人なら どうだろう と 言うと 此れも時間が とかで

外人(僕の事)につまみ食いされてはと 警戒心が 強い

困っていたら  仕事の 仲介をする アラブ人が 出て来た 

俺は酒を飲むだけだが 貴方は飯を食べてて 良いと 

レストランは 高いから 自分たちの 倶楽部に おいでよ

此処は 倶楽部の世界だよと いう

ノコノコ 着いて行くと  普通のレストランの 奥に

 シリア-レバノン 倶楽部と 書いてあった
朝 8時には 犬の散歩を終わらせないと  イケナイ

通学が始まった  2.8kgの9歳のチワワだが  何かの間違いで 

低学年の子お子さんが 犬に吠えられて 転んで怪我されても 

まして 噛んだなんて 言われると 犬を処分しなくては と成る程の 少子化だ

ブラジルについて お昼ご飯は 駐在員の方は 和食屋さんに 行く方が 多い

独身の肉好きな方が 居て2人で ショラスコと いう 

串焼き(大きな串に 大きな肉がささり カマドのに立てかけたある)

その串焼きの肉を テーブルに持って来てもらい

ステーキ程度愛の薄さに そいで もらう 

勿論  お代わり 自由 堅い肉(焼け過ぎは 食べなくてよい)が 1

500円程度(当時の日本円換算で)だったので

ワインをつけても昼なら 2000円で ステーキ 食べ放題見たいなものだった

フィレ ミニョンしか 頼まない 生焼で 赤みの 残った肉しか食べないと 豪華にしても

値段は変わらないかった 50年前の話しだから今なら 2万円位かな?

でも 毎日食べらると 飽きる それに ポルトガル語の練習に成らない

夕飯は 一人で食べるしかないが イキオイ 日本飯やに 行く事になる

此れでは 海外に出た意味が無いと 一人でレストランで 食べてたが

何せ メニューを読むのが やっとで 楽しく無い

何処かに 食事の 相手を探さなければと 考えた



暑くなって 来たので  6時30分 から散歩に出た(9歳の犬と)

2ー3日前に成るが  加古町の 本川(旧太田川)の脇を 国道2号線まで 下って来たら

蟹が 群れをなして 居た ウレシかった

広島に戻って来て20年程に成るが 散歩の際に 見るのは 1匹2匹で 

爪の赤くなった 大型のは 年に1回 1匹見えれば

 「あーまだ 自然破壊に 耐えて 生きてるのが 居る」と ホットしたのだが

今年は違う

神崎小学校の脇ぐらい迄 来ないと 会えないが 

石垣に そって 蟹が数10匹モソモソしてた  懐かしかった

昔は 少し砂が細かくて ヌメッとした浜に行けば 小さな蟹穴が 一杯あって

ウよーと湧いていたのに 今は どの浜辺でも 蟹の群れを見る事が 殆どない

畑や水田の農薬が キツいのか?  メタンガスが多すぎて 住めないのかと 心配してた

でも 群れで 顔を出してくれると  

ヤッパリ 自然の生命は 人口の農薬や産業廃棄物には 負けない 

だから今度のコロナも 大丈夫だ と 勝手に思った

72歳を 超えたので 退職して 家にいる 従って 

家にかかって来る電話は 出る 用にしてたが

女房が出ちゃイケナイと 言う 何となく 女房の言う方が正しい

今日 タマタマ 女房の留守に電話が有り 出た

家系図売りが  かけて来た

50万から100万円するそうだ アメリカでは もっと流行ってて DNA鑑定をするそうだ

丁寧に お断りした 

家系図が 有った所で  息子は仕舞う場所に困るだろうし

僕の父母の骨も海まいて 僕のも海ににまいてくれと 言ってるので  

墓も無ければ 家系図も要らないだろう

ネットが今後廃れるかどうか 不明だが

死ぬ前に ブログを整理して 年代順に並べて プリントしておけば 後は 要らないと

思ってる

でも netのブログなら 見ても 印刷物は 整理の邪魔かも 

朝の5時から 犬に起こされて 犬の食事と オシッコの躾だ 

 さて 古い話しだ

小学校3年の時に 村の神社(東京とは言え 田舎ポックって)の屋台で

般若の面の 小さな根付けを 売っていた 父に頼んで買ってもらった 

自分の小遣いで買えなかったから 100円したとおもう

でウレシくて 次の朝 ポケットから 根付けだけ 見えるように 

ブラブラさせて登校した すると 

僕もウレシかったけど 

近所の犬も 白っぽい物(根付け)が 半ズボンの脇からブラブラするのに気がついて

多分 おもしろいか 目あたらしいか で 駆け寄って吠えて来た

恐がりの 僕は あわてて逃げた

 でも 後ろの犬を見ながら駈けたので 転んだ

学校の保健室で 手当てして貰った

父が 何とか 僕の犬の恐がりを治そうと その後 小さなスッピツを 買った

父の思いが通じるのは そのスッピツが10年位 いて 老犬に成る頃まで かかった


初めて自分で育てた 猫の話しだ

小学生の頃だと 思うが 今度は猫で 失敗しては イケナイと 

ミルクは当時 高かったので 家に配達もなく 後で少し家庭に余裕がでて

ミルクを取ってもらい  左程 大量には飲ませられなかった けど 

貰って来た猫と 僕は 一緒の布団で 寝て 食べ物も

自分の魚は 取り分けて 食べさせていた 

ペルシャと和猫の 間の子で ドンドン大きく成って 毛もフサフサして 

歩く狸を思わせるほど 大きかった  半年もすると 一人前になり

1年しないうちに 妊娠した  僕が可愛がっていたので

お腹が大きくて 臨月の頃は 僕の布団に 入って来て お腹を撫ぜろ撫ぜろと

頭をこすりつけ 子供を産む際も 心配だから一緒に居てくれと

僕の布団の中で生んだ5−6匹生まれて 何処に貰ってもらおうかと 考えてたが

何故か 10日もすると 一匹づつ 死んでしまう   死んだ子猫を 何とかしろ

と 僕の足元へ 持って来る 残りが2匹程度になると 必死で オッパイを飲ませようと

するのだが やはり上手く行かず  全部 死んで  最後の一匹は 死んでも2日ほどは

口にくわえ 父母のところへ 助けてくれと 持って回っていた

このミーコは 大きくて 僕の言う事も良く解ったし ネズミも取って来ては 自慢して

何回も 見せる 有能なのだが

何故か 妊娠だけは その後 2回して 2回とも全員(全匹)2週間位で死んでしまう

父に聞くと 暫くして分かったのだが

ペルシャと三毛の劣性遺伝で 子供が出来ないのだろう そのうち不妊になるよ

と その通りに成った 

僕が ねっこ 可愛がりしたので 僕が寝る時は 大概 一緒に寝た




50年程まえに ニューヨークで ステーキの美味しいのは 日本人のやってる店だと聞き

驚いて 見に行ったけど 値段がかなり高かった 

美味しかったし 店の名前の  紅はな  神戸 は 覚えてる

神戸の お肉が 美味しくて 息子に Kobeと 名をつける 外人の方も出て来たくらいだ

で ステーキは自費で食べるのは高いので トンカツなら 安いだろうと 思って

トンカツ屋で 外人の店のほうが 肉が大きいだろうから 

外人のやってるトンカツ屋さん 何処か無いですか? と ニューヨークの駐在の人に聞くと


「浅井 トンカツは 日本食だ  食べたいなら 和食の店へ行け」 と 言われて 驚いた 

そう言えば トンカツソースも ブルドック って言うから アメリカかイギリスのものだと

思ってたが ブアジルでも NYでも 見かけなかった

それから20年ぐらい後に アメリカの家庭で ご飯をご馳走になったとき

外人さん が ステーキに 日本のキッコーマンの醤油をかけて 旨いと 言うのを見て

ソースの文化は 日本が優れているのか 日本の 家庭の奥さんの 水準が高いから

ソースや 醤油の文化が 進むのか と 思った


本通がアーケードなので 雨の日も 犬の 散歩が出来るのですが 

午前8時には終わりにしないと 9時では お店の開店の人にご迷惑です


昨日の ブログを 猫と犬を間違えて 書きました ゴメンナサイ


僕は 子供の頃から ビビリで 猫も犬もダメでした

猫を 飼う キッカケは 幼稚園の頃 捨て猫が 家の前に置いてあり

飼う事に成ったのですが 僕は怖くって 逃げてました  

白黒のチビの子猫でした

その子猫が 足にじゃれて来くるので 僕は逃げ回って 居たのですが 

ある日 逃げても逃げても 追いかけられるので 首を掴んで 壁に押し付けました

すると 猫が 動かなく成ったのです

多分 幼稚園でしたので まさか死ぬとは 思ってなかったのですが 力の加減が出来ませんでした

で お墓を作り

父に(なぜか 父なのですが)に謝って もう一匹もらって来て呉れ 

今度は 大事に するから と 言って 三毛とペルシャの間の子の 目のぎょろっとした

ミーコ(雌)を 貰ってきて もらいました  

この猫は 当時としては 珍しく 長生きで

僕の 幼稚園5歳から大学受験18歳まで 付き合ってくれ

13歳で 往生しました
子猫が キャットフードが 固いと 食べないので 

水をかけ 電子レンジで チンすると 柔らかく 香りも良いので 食べる 

それでも 食が細いので キャットフードを 一粒ずつ 拾い 手のひらに載せて

食べさせてると  漸くたべる

 しゃがんだ姿勢で 此れをやって  1昨日  足の甲がむくんで 血管が見えなくなった ので

流石 一日 休んで マッサージをして 普通の足に戻した

で 今日は最初から 腰を下ろして 餌やりを 始めた
 
すると 9歳の猫も 電子レンジで暖めた香りのよい キャットフードが良いとで 

寄って来て 腰を下ろした 僕の膝にのる

今まで 床で食べてた3ヶ月の子猫も 「私も膝に乗せなきゃ 食べない 」と膝にのる

仕方ない 両方の膝に 一匹ずつ 乗っけて

ご飯を 一粒づつ 食べさしてたら

一日が 過ぎた
ジャカランダ 日本で言えば桜かな 火曜日
ブラジルでも アフリカでも 街路樹として 並木道みたいに 咲いていて

ブルーの 綺麗な 花が 束のように 咲く

ブラジルで 見かけていた木が アフリカでも 有ると なんとなく 嬉しい

そうか 此処でも 待っててくれたのか と 思った

ブラジルから帰って1年 アフリカに出る迄 日本に居たが 

御殿女中じゃ 有るまいし 皆様の意向と 気配りの 社会に 嫌気がさしていたので 

アフリカに辞令がでた時は嬉しかった

折角 東大出たのに 南半球の ドサ周りか と 言われて 悔しかったのは 事実だが

アフリカで 友達ができたので 苦にならなかった 彼の被った(こうむった)災難に比べれば

日本の中で 出身校が どうの 課長への昇進の 遅れがどうのと 言うのは

革命の中で 逃げて来て 常に「おい 今を どう 生きるんだ」の 生き方を している

人に対して 失礼な 気がした
朝から 2匹犬の お守り(一匹は オシッコと ウンチの訓練)に 明け暮れて居る

25歳のとき 住友商事で3年目で 1ヶ月だけ ブラジルに出してもらった

飛行機は当時30時間位乗ってた 

羽田ーハワイーロス アンジェルス-リマ(ペルー)ーリオデジャネイロ(ブラジル)と 

長旅だった  着いた日が 日曜日だった 

リオの 飛行場には 「MR。ASAI]と A-4の紙を持った 

小柄な 黒人の運転手さんが 居た 

朝ーで着いたので 言葉が通じるなら  この車と運転手を使って

勝手に 歩いて見て来い と 指示を貰っていた 

ならば リオの海岸で 泳ごうと 思った

海水パンツを 買って コパカバーナに向かった

不思議だな と思ったのは   サーフィンは している子供は 居るが

大人は殆ど居なかった で まして 泳いでいる人は 殆ど居なかった

勿論 スタイルの良い 若い女の子は 一杯居たが 

僕は 泳ぐので眼鏡を外したので見えない

泳ぎだして 気がついた 海流の流れが早いのだ 岸に戻るのが 大変なのだ 

仕方ない 流れに逆らわず 少しづつ ユックリ 岸に向かった 

危ない と 思ってから 1時間程して 1km程流されて クタクタに成って 岸についた

眼鏡をしてないので  誰が誰で 何処に 車と運転手が いるかも 分からない

岸には着いたが サー眼鏡なしで どう探そうか と 考えて居ると

そこに 旦那 旦那 と 小柄な 運転手さんが 駆け寄って くれた

旦那が 流されて 戻って来ないので  ドンドン 遠くへ行くので 岸を 追いかけていたと

「アー これで 車を 探さなくて済む」 と 思った 

仕事は それから 1ヶ月ほど 楽しかった

で 1ヶ月後 同じ運転手さんが 飛行場迄送ってくて 言うには

「来た日に 貴方が 海に消えるかと 思った

あそこで 貴方が 死ななかったのは 

ブラジルが 貴方を 愛しているからだ  戻ってきてね」と 言われた

本当に それから半年で 戻ってきて 3年居る事に成った
 
午前中に 犬 9歳を連れて を散歩に連れて出た すると 急に 雨が

傘を持たない僕が イケナイのだが 広島の地下街は 助かる

かなりの距離を 濡れないで 帰って来れた

午後からは 雨が強いのだが  犬が 遊んでくれ と 2匹で 待って 居る

2.8kgの9歳が僕の膝の上 0.5kgの0.5歳が 僕の足元で 親指をかじる

人間なので 孫の守り なら 幾らでもできるのだろうが

犬のお守りだと 手を抜く事に成る
パラナ松とバオバブ 雨 土曜日
パラナ松とバオバブ 雨 土曜日
パラナ松とバオバブ 雨 土曜日
アフリカの高原を 鉄鉱石や 墓石を探して ジープで 回っていると バオバブの木がある

バオバブの方がデブで ガッシリしてるが ブラジルの田舎にも パラナ松と 言って

彼岸花が 大きく成ったような 木が ある 昔は 繋がって 居たんだろうなと 思わせる

海岸から 切り立った 崖が アフリカも ブラジルも 続く だから 僕は ブラジルの後で

アフリカの アンゴラに来ても 違和感が 無かったのかも

上から バオバブ 

中 パラナ松

下 彼岸花
50年程前 上海から 汽車にのり 桂林をへて 北京へ 向かった 大学2年生だった

お茶を 売りに来た 大きな250ccほど入りそうな 蓋付き湯のみに お茶っ葉が入っていて

お湯を 注いでくれる お代わりの お湯は 列車の中なら 2ー3回は無料だ

駅のホームには 果物を売る 人が ラーチーと 叫んでる

茘枝である  剥いて食べる  竜顔という 少し実の大きいのも 似た味だ

中国では 水に気をつけろと 言われたが こんなに 果物が美味しいと 思わなかった

子供の頃は バナナですら 驚いて 食べていた 時代だった

遠足に バナナを 持って来ない事を 学校から 注意が 有った程だ

貧しい家庭も 沢山あった


蕎麦の売り込みの電話が 長野から あって  毎月1回は 日本蕎麦を家で食べてた

でも 子供も東京に出て居なく成り 今は夫婦2人なので 

2ヶ月に1回程度 食卓に出て来る

食べながら  アフリカで食べた 蕎麦ガキを おもいだした 

蕎麦でないかも知れないが  小さな雑穀の食べ方は世界でこでも同じなのだろう

小さな実を 石で挽いて 外の皮をとり 粉にして 捏ねて 湯がく のだろう

 アフリカでは100kmも車で走れば 高原に出る 出ると奥地で 泊まらないと帰れない

高原の そこの家で夕食をご馳走に成る で 出してくれたのが

そばがきだった 日本にも同じの有るよ と 言うと 喜んでくれて

俺たち アフリカは 遅れてる と 思ったし ヨーロッパの奴は 馬鹿にしてたけど

日本人は違う 日本人が来たら 同じ物 食べてる と 言ってくれた

革命して 独立して 良かった と  繰り返し 繰り返し 手を握ってくれた
 
今 そばがきを 知らない 若い方も 多い

多分 貧しい戦後を知ってる僕らの強みかも 知れない

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