小学校に 上がった頃だった と 思う 1年生か2年生だった

母が 映画を一人で見に行けないから と 僕を連れて行って呉れた

有楽町から お堀に出て GHQ(米軍の司令部)が 有ったビルの 隣の映画館だった

総天然色(カラーと言う英語を知らなかった)で 驚いた

 中国人の女医さんと 米国の戦争報道記者の恋物語で

男の方が 戦死して  

女医さんが 丘の上で 優しかった彼を 思い出すシーンで終わりになる

母は こう成りたかったのだろうな? と 思った
郵便局に おまけの 切手を貰いに行った

でも 机の上に 100枚は まだ 返事をだしてない(7年出してないので)

そう言えば

お正月に義理の父と 話すと もう今年で 年賀状を止める と言い出した

女房に話すと

ならば 止めますと 言う  葉書を 喪中の 年賀遠慮します と いうタイミングで

出したいの手伝ってくれと 年末に 言ってくるわよ 私に

父の年賀状は 私が作ってるから と
まだ 昨日の話しだ 

雨の中 神田と言うより神保町や竹橋に近い 学士会館に向かう

5時の開演なのに 4時半にほぼ揃ってる オジン オバンの全共闘だ

世の中は  

1969年東京大学 安田講堂事件

 1970年 日本航空 よど号 ハイジャック 北朝鮮亡命

 1972年 あさま山荘の殺戮 (国内派)
 1972年 テルアビブ(イスラエル)空港 自爆テロの輸出(国際派)と

一緒くた に されて 居るけれど

今日集まった 人達の思いは  あの武装グループと一緒にして欲しく無い

(間違われても仕方ないが) と 思うものが多い

当時の全共闘はそれほど過激に他人を傷をつけないが

世の中を 純粋に良くしよう と 

まずは せめて大学の中だけは 公平で公正にしようと 素直に立ち上がった

50年前の仲間だ (僕を 仲間と呼んでくれとは 言いづらい)

僕は一回の経験で (デモで警察に殴られた)真っ先に 逃げたから

それすら 言えない

それにしても

今の 香港の人達の 絶え間ないデモは 

また 1989年 天安門事件は 

其れこそ 命をかけた 戦いなのだと 

幸せボンボンの僕には申し訳なさで イッパイだ

で 

参加 してくれた 中国の若者に聞くと 

「天安門の件は  日本で 聞いた 中国では聞いた事が無い 」と 

「香港の事も あまり 報道は 無いのでは」と 当惑してた

温度差なのか 関わらないように してるのか でも 一緒の席に 居た事だけでも

感謝しよう
10時の新幹線で  東京へ行った 2時に 品川で 旧友(宮本)と待ち合わせ

雨で タバコを吸える テラスが 使えないと 心配してたら

品川駅の 喫茶店で  「テラス席も 禁煙です」と 言われ 

傘さしても 屋外で coffee飲みながら 話そうとしてたのに

世の中  タバコを 苛めると  喫煙の場所を 内緒で作る事になり

どうせ潜りの場所を作るなら  マリファナまでと 拡大しそうな気が するが

苛め方が 

何とも 情けない 学校の 優等生みたいに 成って来たな と 思ってたら 

旧友が 言うには 優等生も すこしづつ 変わってきてきて

最近の東大の法学部の優等生は 官僚に成れても 大喜びしない

折角 高等文官試験に 受かっても あの 歯の浮くような 嘘を 言いたく無いと

いう 学生さんが いる とのこと  だ 

で 彼と別れて  今日の集まりの 学士会館に 辿りつくと

201号室 全共闘 出版記念と 書いてある

もう 半分以上来てる

この部屋で  半沢直樹の TV の裁判所のロケを したと

物知りの 干場が言う

で 小学校の3年の 冬に 貰って 来てもらったのが ミーコと言う子猫だった

和猫とペルシャの間の子で 凄く大きな猫に1年で育った

付きっきりで 世話をした 1年経って ミーコが妊娠し出産の時に

お腹をさすれとか 見てろとか いろいろな事を 猫から 仰せつかって

ミーコは僕の布団で5匹 生んだ  

でも2-3日で 目も空かない 毛もシッカリしない 内に 

一匹づつ 死んで 行った  最後の1匹は 死んでから 2日ほど ミーコが 口から 離さず

ズーと 舐めていた 僕に「助けろ、助けろ」と 何度も持って来た

父と母が医者なので 助けて呉れと 頼むと 獣医じゃないと分からんよ と

その後 次の春に 妊娠したが やはり 生んで直ぐ 死んでしまった

当時 獣医さんなどと 言うものは 田舎にしか なく  

父母は  「間の子だから ミーコは生きてるけど 3世代目は上手く行かないかな」

と 頼りなげ に 言うだけだった

まだ DNAとか  遺伝子とか 明確な時代でなかった けど 3年目からは

ミーコは 妊娠しなくなった でも 僕と一緒に 寝ることだけは 続いた



父も母も ビビリやで 泣き虫の 息子(僕の事)に 手を焼いたのか

小学校3年の 春の遠足から 転校して  友達も出来きずに

一人でバスと電車で1時間半かけた 私立の学校に通う僕を不憫に思ってか

犬を飼ってもだめなら と 子猫を貰って来てくれた

でも 僕は猫にも どうして良いか 分からず 困っていた

ある日 子猫が  歩いて遠さかろうと する 僕の

足首にじゃれて来た ので  捕まえて 壁に押し付けたら

力が強すぎたのか 長過ぎたのか で 死んでしまった

2-3 ヶ月の猫だから 両方の手のひら 位しか 無い 子猫だった

どう考えても 僕が 苛めて殺したと 思ったで

猫に詫びて 父に 今度は 大事にするから と また 猫を貰って来てと お願いした

2匹で 歩いた 場所を 1匹で 歩かなければならない

11ヶ月のチビが此処で こんな風に 立ち止まった とか 

尻尾が 上がって 意気揚々と 走り出した とか 思うと

8歳の犬が 少し 早めに 歩いて呉れても  速さが違う

8歳のが 遅いので 11ヶ月のは クルクル回って 走ってた

思い出でと 散歩しているようだ 

 そう言えば 小学校3年の 登校時に 犬に噛まれた 野良犬ほど 大きく無かったから

成犬に成りかけの 黒っぽい お腹の白い犬だった 

お陰で 中学ぐらい迄 犬が 怖かった   

あまり怖がるので 息子のビビリを治そうと思ったか 

父が スピッツを飼ってくれた  でも ビビリの僕は ナカナカ 散歩をさせられなかった

スピッツは 家の小さな庭の中で クルクルと 走ってた
朝 週末に東京へ行く 切符を買いに行った

昼前に  犬の弔問に 来られる方を 待って  多少は 綺麗な服に着替えた

昼から  女房と焼き場に出かけた 生きてる8歳の犬も連れて行った

読経もしてくれるし 納骨もしてくれる

心を癒す仕事を 丁寧にしてもらうと ホットする

山の上の 大迫なんとか と言う ペット霊園だった

犬は主人の笑顔を見たいのよ    泣いても分からないよ

送る時は 笑顔で 送るのよ と 

犬の学校の先生が 電話口で言って呉れたけど

 笑顔は出来なかった 


2匹を連れて 散歩に 出かけようとした

8歳の茶色の 犬が  マンションの玄関で

すれ違った 一階上の 方に 吠えた

吠えたので 慌てて 抱き上げた

その時に もう一匹の8ヶ月の犬が  ドアに 足を挟まれた 

キャンキャンと言うので ドアを開けたら 飛び出した 

で 何処に行ったか 分からない

女房と 探したが 見つからないまま 時間が経った

知り合いから 電話で

平和大通の 中国新聞に向かう 橋の上で お宅の犬が ひかれてると

出かけたら  事切れてた 息をしてなかった
平和大通の ポプラで 犬と3時の お八つとcoffeeと思ったが 雲が厚く 寒い

で 普段着の外国人の 親子3人(一人は20歳くらいの女性と50歳代の夫婦)が

ポプラで買い物をして 袋を詰め替えてる 

どう考えても 聞こえてくるのは  ブラジルのポルトガル語だ

何とも リスボンのポルトガル語より 聞き易い で 話しだして

この子が 働いてくれて 呼んでくれたと 自慢していた

飛行機代が高くって この子に世話になったと 

金額を言われても すぐに計算出来ない

住んでる場所が近いとの事で 又会えるねで 携帯の番号も メールも聞かなかった

なんて僕は 間の抜けた事をしたのだろう 犬を2匹連れてるから 、

向こうから見つけてくらないか と 勝手に思っては イケナイ
昼に ポプラで カレーを食べた  昨日の金曜日の 話しだが

フランス人が美味しそうに食べてたので 食べて見たかった

犬を2匹 膝に乗せ 暖かな日差しの中で 犬2匹と一緒に食事だ

先生 あと150円たして 地場の 小さなカレー屋に入って下さい と 言われて居るのだが

犬連れでは 入りにくい

こんな事をしてると 用意しなくても 後で皿を洗わなくても 酒さえ飲まなければ

コンビニの 前で食事が取れる事に成る  

話し相手が 犬だと 言う 欠点は あるが 周りの人と会話も出来る

映画を 見た事がある   何処で 見たのか  記憶に無いが

この子供向けの 本を 英語で読もうとして 買って 何もしないで 大学の戸棚に飾った

で 大学へ行ったら未だ 置いてある 最も 不思議の国のアリス の ルイス キャロル全集も

900頁の英文の あまりの厚さに 辟易(へきえき)して 大学に残して来た(タンスの肥やしだろうな?)のが そのまま置いてある 

アリスは 死ぬ迄に読む事は無いだろうが チョコレート工場なら と 思って持って来た

で1日で読もうと150頁の本を開いたが 50頁が 一日で 精一杯だった


鏡餅の 由来を 聞かれて 答えられなかった

ネットで引くと 鏡に似せて作った 薄いとか 平とか 書いてある

お習字を お正月だから しようと 言う事で 付き合ったが

死んだ母は 習字教室を 嫌っていた が 習字教室には 行かせて呉れた

書き順を 覚えて どうやって アメリカと 戦うんだい と 言いながら

よっぽど 原爆からの 立ち直りの時期に 苦労したんだろう

お向かいの 人は  平常心と 翔る と 書いていた

僕は 不惑と 書いたが 迷惑と 書き直した
雨が 酷いので 車で 出かけた 寒いのでで

30年前の 灰色のスーツに 黒のタートルネックのセーターで 出かけた

ヤクザの親分では ないのだが 最近 ネクタイを 着けない風潮なので

また 車だったので コートが要らなかったから

で 挨拶を すると 全員が ザワザワと 立ち上がってくれた

タマタマ その20人くらいの 課長? 室長に 会いに行ったのだけど
今年は まだ6通しか だしてない

貰ったのは 山ほど積んである と言っても 100枚程度だが

もう7年は出してない 今年から返事をゆっくり して行こうと 思う

で 中学の友達3人 と 大学の後輩1名 と 今 助けてもらった卒業生2名だ

一時500枚は出していたが 

広島の小さな大学の教授なのか 八王子のラクビーの教授なのか と

聞かれても困るので 7年前に 出すのを止めた

で 6通 出して 

此れから72歳に成って どうやって生きて 良いか

分からない と書いた  その返事は どれも

お元気そうで のどかで 楽しそうで 良いなーと 書いてある

僕は 困っているのだ
48年前 住友商事に入った最初の年の1月4日は 課長以下で 初詣に行った

勤務時間に良いのかな? と 思ったが そこが会社の 皆で渡れば恐く無いだろう

8時50分出社で 9時半に住友金属に ご挨拶に行き 10時過ぎに 戻って

綺麗な晴れ着の女性と一緒に初詣と写真を 撮って お昼を会社の費用で 皆で食べて

男子は 午後1時から麻雀大会だった  

此れを 今でもやってると 思わないが 伝統は消えないのかも

朝9時に  家を出ると NHKの向いの 白神社は ワイシャツとネクタイの列だった
白神さん の前の 日溜まりに  家族が座ってた  僕の散歩の犬がその前で止まった

で 可愛いねと 日本語で言ってくれたので  話しだて 暫くしてから

ブラジルの  リオデジャネイロから  来たと 分かった

急に ポルトガル語に成ったが やはり30年以上話してないと 単語が出て来ない

日本は 良いね 特に 広島は と 言う 何故? と聞くと

空が広い と 東京は 空が狭いと リオは前が海だから 海と空は広い 此処は落ち着くと

そうか そう来たか 広島は 空が広い 広島でなくて 広空か と 思った


ゴアは インドの西海岸の ボンベイ(今はムンバイ)の少し南

天気が良いので 犬を連れて 平和公園の散歩だ

で 浅黒いのだけど 背の高い インド人ぽい けど 少し柔らかい 夫婦と

英語で 話してたら ゴアから来た 何処にあるか 知ってるかい? と 言われたので

懐かしい ポルトガル語だろ と 言って 英語をやめてポルトガル語にしたら

もう 何年も前から 使われてないよ 聞くのは聞けるけど 自分から 話すのは

日常の 挨拶だけだよ と 言われて 英語に 戻ってしまった

何で ポルトガル語を 話すんだ と言われて 

暇だから スペイン語をやってたら

残念な事に ポルトガル語が出来ると 思われて

ブラジルに行って 3年

その次に アフリカの アンゴラに3年居たと 言い出したら 

ケラケラ 笑い出した ゴア(ボンベイ:今はムンバイの少し南)で

キチンと ポルトガル語を話す人は お年寄りだけだ と

僕が71歳でもうじき72歳だと いうと それは お年よりの 年だから

今なら 話し相手が まだ 居るよ 早く ゴアにおいでよ

でも 僕たちは もう 英語の方が楽だよ と 言われた
3日とも 晴れで 朝から NHKの東隣の 白神社に 初詣の人が並んでる。

初詣で 思い出すのは  子供の頃 一度だけ 川崎の お大師様に行ったら

混雑が酷くって 行き着けなくて ガッカリした事があった



僕が中学生の頃から 夫婦仲も良くなってきて  金銭的な余裕も出て来て

お正月の1日は混むから辞めて 2日の朝早くに  初詣をしようとなり

行くなら 代々木の  明治神宮までと しようと 言う事に成った

天皇陛下万歳と 言って 死んで行った 戦友の事は ドウなるのかな?と 思ったが

車も買ったし 渋谷や代々木のほうが 羽田の田舎より 格好よいが 勝って

 7時ごろの 日の出の頃に 家をでて8時頃に 代々木について 

参道を砂利を踏みながら歩いて 参拝する事を

2-3年繰り返した(多分その後は 受験で取りやめになった) 

で 10時過ぎに青山通りで 高そうな レストラン?で 早めのお昼ご飯と成った と思う
平和公園で犬に散歩をしてもらってると

懐かしいポルトガル語が 聞こえる 

此れはブラジルのポルトガル語だ と 思ったら

相手が 日本語で 返してくれる

「お父さんは 日系の2世です だから 高崎で働いてます」と

顔はヒゲが 付いて いれば  シリアかレバノン人みたいで 

 お嫁さんは少し黒いけど 西洋の顔だ

で お正月の休みで 家族で 高崎から レンタカーで 広島に来た と 7時間半かかったと

日本に来る人も 居る外国人も多いけど 

広島まで来てくれる人は 世界の平和を願う人だ と 言うと 喜んでくれた

僕も 久しぶりに ポルトガル語は未だ話しにくいが

 植民地だった ブラジル語と 言うか ぶっきらぼうなポルトガル語のほうが

楽しく 舌の動きが 少し戻って来た気がした

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