インドネシア 日本人学校 月曜日 晴れ
2020年8月31日 日常1) 40年ほど前 未だ住友商事に籍が有る頃 ブラジルから 帰ると
「君は 低開発国は 大丈夫かね?」という
仕事は インドネシアの石油省に買い取ってもらう 石油の掘削だ
場所は パレンバン(親父が 落下傘部隊の話しをしてた)なので 何か因縁を感じた
内容は USAから技術屋を呼んで(通訳は僕だった)
ジャカルタの工場 製品を作ってもらい (その会社は英語がイマイチなので僕が インドネシア語を 覚える 事になった)
技術移転を伴う 日米インドネシア合作 石油を
石油省のプルタミナに 買ってもらう仕事だ
で インドネシアの パレンバンで 石油堀の仕事を する事になった
3) 親父が 東側の ソロモン群島の ガダルカナルに 居たと 言ってたから
僕が 西側の パレンバンに 行くとは 思わなかった
行って見ると パレンバンの石油井戸は枯渇して 古い櫓だけで
この日本軍が 吸い残した 古い 石油の井戸に 高圧高温の水蒸気を吹き込み
もう一度 油を 吸い出す 何とも カップラーメンの油を漉しとるような 技術を
アメリカからの技術屋の オジさん(英語)と 現地の鉄工会社(インドネシア語)と組んで
一緒に インドネシアの プルタミナ(石油省)に 売り込む話しだ
4)関係者の了解を とって 実験として 一台動かして見ましょうと 言う事になり
最初の1台が仕上がり 設置して 結果がでるまで 時間が有った
時間があるので どうしましょう? と 現地の所長に 聞くと
浅井君 インドネシア語は 読み書きは別として
口語の売り買い程度の会話は 簡単だから 君 3ヶ月ぐらいで何とか成らんかね?と
で 仕事半分 ネシア語半分 ゴルフの接待役半分と 優雅に暮らしてもらった
5)その時に インドネシアの日本人学校が きわめて 優秀だとと 言う事をきかされた
そうか サンパウロの日本人学校の時に 聞いた事を 思い出して
駐在員の方々の話しを聞くと 居る日本人の質が 良さそうで 日本に帰って
困らないと 言う事を 何時も考えて居る気が した
「君は 低開発国は 大丈夫かね?」という
仕事は インドネシアの石油省に買い取ってもらう 石油の掘削だ
場所は パレンバン(親父が 落下傘部隊の話しをしてた)なので 何か因縁を感じた
内容は USAから技術屋を呼んで(通訳は僕だった)
ジャカルタの工場 製品を作ってもらい (その会社は英語がイマイチなので僕が インドネシア語を 覚える 事になった)
技術移転を伴う 日米インドネシア合作 石油を
石油省のプルタミナに 買ってもらう仕事だ
で インドネシアの パレンバンで 石油堀の仕事を する事になった
3) 親父が 東側の ソロモン群島の ガダルカナルに 居たと 言ってたから
僕が 西側の パレンバンに 行くとは 思わなかった
行って見ると パレンバンの石油井戸は枯渇して 古い櫓だけで
この日本軍が 吸い残した 古い 石油の井戸に 高圧高温の水蒸気を吹き込み
もう一度 油を 吸い出す 何とも カップラーメンの油を漉しとるような 技術を
アメリカからの技術屋の オジさん(英語)と 現地の鉄工会社(インドネシア語)と組んで
一緒に インドネシアの プルタミナ(石油省)に 売り込む話しだ
4)関係者の了解を とって 実験として 一台動かして見ましょうと 言う事になり
最初の1台が仕上がり 設置して 結果がでるまで 時間が有った
時間があるので どうしましょう? と 現地の所長に 聞くと
浅井君 インドネシア語は 読み書きは別として
口語の売り買い程度の会話は 簡単だから 君 3ヶ月ぐらいで何とか成らんかね?と
で 仕事半分 ネシア語半分 ゴルフの接待役半分と 優雅に暮らしてもらった
5)その時に インドネシアの日本人学校が きわめて 優秀だとと 言う事をきかされた
そうか サンパウロの日本人学校の時に 聞いた事を 思い出して
駐在員の方々の話しを聞くと 居る日本人の質が 良さそうで 日本に帰って
困らないと 言う事を 何時も考えて居る気が した
ラバウル小唄 (酋長の娘)その2 日曜日
2020年8月30日 日常 コメント (2)古い話しで 強縮ですが 父が 茶碗酒で 歌うとき
ラバウル小唄と 一緒に 酋長の娘を 歌ってました
「私のラバーさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人」と 言う歌です
子供の頃 ラバさん て 人をバカにした 変わった名前だな? と思ってました
英語は 小学校3年から やってたけど 中学になって色気がついて
ラバさんが 愛のloveで愛人が loverと 気がついて 恥ずかしくなったのを覚えてます
一昨日 会った パプアニューギニアの女の人に 「あら 私たちの国の教育は 英語よ」
と 言われた 時に ご免なさいね だから英語が上手だ と思って 別れたのですが
家に帰って 考えると 色々出てきて そう言えば あの 酋長の娘の 唄に
ラバ lover さん があった 中学の時に 驚いたloverさんを 思い出しました
でも インドネシアの 東のはての チモールの先の パプアニューギニアが 英語なんて
失礼ながら 気がつくのに 時間がかかりました
ラバウル小唄と 一緒に 酋長の娘を 歌ってました
「私のラバーさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人」と 言う歌です
子供の頃 ラバさん て 人をバカにした 変わった名前だな? と思ってました
英語は 小学校3年から やってたけど 中学になって色気がついて
ラバさんが 愛のloveで愛人が loverと 気がついて 恥ずかしくなったのを覚えてます
一昨日 会った パプアニューギニアの女の人に 「あら 私たちの国の教育は 英語よ」
と 言われた 時に ご免なさいね だから英語が上手だ と思って 別れたのですが
家に帰って 考えると 色々出てきて そう言えば あの 酋長の娘の 唄に
ラバ lover さん があった 中学の時に 驚いたloverさんを 思い出しました
でも インドネシアの 東のはての チモールの先の パプアニューギニアが 英語なんて
失礼ながら 気がつくのに 時間がかかりました
ラバウル小唄 土曜日 熱い
2020年8月29日 日常 コメント (1)(1) 広島は真夏の天気だ 来る筈の台風は韓国へ行っちゃた ようだ
可哀想に 北朝鮮は 台風の被害もでている もとより 食料が足りないのに
たしか 家の犬を 食用に回せと おふれが 出たと言う
でも 貧しいなら 致し方無いのかも
(2)でパプアニューギニアの 続きだ ラバウルと言う旧日本軍の基地が有った
そこで ラバウル小唄 が出来たらしい 父がよく歌っていた
(3) 父は30万で土地と家を建ててもらったが その家には 風呂は無かった
で もらい湯に 通ってた
夕暮れに 母に連れられて もらい湯に トウモロコシ畑を抜けて 通ってた
30万の借金(母の両親から)も返してなかったが 風呂を作ろうが
親父の女房への 気持ちだったのだろう
(4) 風呂だけの 小さな小屋が家に継ぎ足された
風呂から 上がった 父が 夕ご飯の 時 良く 歌ってたのが ラバウル小唄だ
それ以外も 殆ど 軍歌だった 後は 小学校唱歌と 美空ひばり の 靴磨きだった
晩酌をし乍ら 歌っている 父の側に寄り添う 母が 楽しそうだった
可哀想に 北朝鮮は 台風の被害もでている もとより 食料が足りないのに
たしか 家の犬を 食用に回せと おふれが 出たと言う
でも 貧しいなら 致し方無いのかも
(2)でパプアニューギニアの 続きだ ラバウルと言う旧日本軍の基地が有った
そこで ラバウル小唄 が出来たらしい 父がよく歌っていた
(3) 父は30万で土地と家を建ててもらったが その家には 風呂は無かった
で もらい湯に 通ってた
夕暮れに 母に連れられて もらい湯に トウモロコシ畑を抜けて 通ってた
30万の借金(母の両親から)も返してなかったが 風呂を作ろうが
親父の女房への 気持ちだったのだろう
(4) 風呂だけの 小さな小屋が家に継ぎ足された
風呂から 上がった 父が 夕ご飯の 時 良く 歌ってたのが ラバウル小唄だ
それ以外も 殆ど 軍歌だった 後は 小学校唱歌と 美空ひばり の 靴磨きだった
晩酌をし乍ら 歌っている 父の側に寄り添う 母が 楽しそうだった
パプア ニューギニア 金曜 晴れ
2020年8月28日 日常久しぶりに 平和公園で 外国人に 会った
奈良に住んでる 日本語の上手な 25才前後の 小柄な 黒人の女性だ
僕は アフリカとブラジルに 居たから 黒人が好きだ
相手にも通じるのか 話すと
「パプア ニューギニアって 知ってる?」と言われ
親父が ブーゲンビルの 南の ガダルカナルに 居たから 知ってるよ
オーストラリアの 北の島だろ と 答え
で 黒人の女の人に 何で 英語が そんなに 上手なの? と 聞くと
あら 英国領だったのよ と 言われ
イケナイ イケナイ 親父か 酒飲んで 歌ってた
ラバウル小唄「 私のラバさん 酋長の娘」の 世界が まだ 僕の頭の中に 会った
現地の 側の インドネシア語の 一言語だと 勝手に 思う
僕の 固定概念だ
ブラック ライブズ マター black lives matter に 反応出来ない
年寄りに成ったか(成ってるのだが) と 思った
奈良に住んでる 日本語の上手な 25才前後の 小柄な 黒人の女性だ
僕は アフリカとブラジルに 居たから 黒人が好きだ
相手にも通じるのか 話すと
「パプア ニューギニアって 知ってる?」と言われ
親父が ブーゲンビルの 南の ガダルカナルに 居たから 知ってるよ
オーストラリアの 北の島だろ と 答え
で 黒人の女の人に 何で 英語が そんなに 上手なの? と 聞くと
あら 英国領だったのよ と 言われ
イケナイ イケナイ 親父か 酒飲んで 歌ってた
ラバウル小唄「 私のラバさん 酋長の娘」の 世界が まだ 僕の頭の中に 会った
現地の 側の インドネシア語の 一言語だと 勝手に 思う
僕の 固定概念だ
ブラック ライブズ マター black lives matter に 反応出来ない
年寄りに成ったか(成ってるのだが) と 思った
盛岡 冷麺 木曜日 上天気
2020年8月27日 日常広島にも 三越がある 女房が 何故か 「 盛岡」 冷麺を 買って来た
昼ご飯に 出て来て 記憶が戻った
30年程まえ 仙台迄は新幹線の中も 都会だった
でも盛岡まで 乗ると 流石 地方の駅だな と 思って それから
八戸まで JRに乗り換えて 八戸が僕の6ヶ月ぐらいの営業地域だった
つまり 「どさ回り」の 営業をして 居た
「0088 お安い 電話屋です」 「公共料金の値下げです」と
此れが 今の携帯の Softbank の母体と成った会社だった
酢の利いた 日本風の 冷麺は 僕を 少し 若い頃に 戻してくれた
昼ご飯に 出て来て 記憶が戻った
30年程まえ 仙台迄は新幹線の中も 都会だった
でも盛岡まで 乗ると 流石 地方の駅だな と 思って それから
八戸まで JRに乗り換えて 八戸が僕の6ヶ月ぐらいの営業地域だった
つまり 「どさ回り」の 営業をして 居た
「0088 お安い 電話屋です」 「公共料金の値下げです」と
此れが 今の携帯の Softbank の母体と成った会社だった
酢の利いた 日本風の 冷麺は 僕を 少し 若い頃に 戻してくれた
角海老で 逮捕 水曜日
2020年8月26日 日常 コメント (2)今更 小学校のクラス委員でも 有るまいし
世の中 で 最古の商売で 次が学校だと 言われるくらい の事で
逮捕されるほうも 可哀想だし 訴えた若者(男性と)思うが
未熟だと 思うが 間違いかな?
昔は ヤダね 野暮だね で済んだ事が 警察のご厄介に 成るなんて
USAの Black lives matter黒の命はドウなる でも ベラルーシュの大統領でも
ニュースを見れば
正しい 事を 通すのが 如何に大変か 解るだろうに
女郎屋に 行って 世話になって お店を 訴えるのが 解らない
日本の角海老で 江戸時代からある? と 落語にある店を
警察に 訴え出るとは お巡りさんも 困ったろうな
尚 記事の最後には こう 書いてある
角海老グループは関東地方で31店を営業している。
売春は売春防止法で全面的に禁じられているが、
売春した本人にも相手方にも罰則はない。
「角海老」ソープ店の責任者ら逮捕 売春場所の提供容疑
...news.yahoo.co.jp › articles
8 時間前 - 売春のための場所を提供したとして、警視庁は、ソープランド老舗「角海老グループ」の店舗の責任者坂口敏(48)=千葉県松戸市竹ケ花=、店長坂本大輔(39)=東京都葛飾区青戸4丁目=両容疑者と従業員の男.
世の中 で 最古の商売で 次が学校だと 言われるくらい の事で
逮捕されるほうも 可哀想だし 訴えた若者(男性と)思うが
未熟だと 思うが 間違いかな?
昔は ヤダね 野暮だね で済んだ事が 警察のご厄介に 成るなんて
USAの Black lives matter黒の命はドウなる でも ベラルーシュの大統領でも
ニュースを見れば
正しい 事を 通すのが 如何に大変か 解るだろうに
女郎屋に 行って 世話になって お店を 訴えるのが 解らない
日本の角海老で 江戸時代からある? と 落語にある店を
警察に 訴え出るとは お巡りさんも 困ったろうな
尚 記事の最後には こう 書いてある
角海老グループは関東地方で31店を営業している。
売春は売春防止法で全面的に禁じられているが、
売春した本人にも相手方にも罰則はない。
「角海老」ソープ店の責任者ら逮捕 売春場所の提供容疑
...news.yahoo.co.jp › articles
8 時間前 - 売春のための場所を提供したとして、警視庁は、ソープランド老舗「角海老グループ」の店舗の責任者坂口敏(48)=千葉県松戸市竹ケ花=、店長坂本大輔(39)=東京都葛飾区青戸4丁目=両容疑者と従業員の男.
反抗期って 無かったの ? 火曜日 夏のようだ
2020年8月25日 日常ブログを 読まれて 居る方から
反抗期って 無かったの? と 聞かれた
僕も無ければ 僕の息子29才 娘26才も 反抗期って 無かった気がする
女房に聞いても 「うちの子は無かったわ」で 「何故だい?」と聞くと
貴方が 子供みたいだから 一緒になって動くからじゃ無い と
そう言えば お袋から 散々 親父の悪口を聞いて
父に 女が出来て ああで 悪い こうで 悪いと 言われても
僕の 心の何処かで あのお袋に我慢してるんじゃ 親父が何かしても 仕方ないよな と
何処かで 思ってた
唯一反抗期らしき物は
お袋が 下手な 煙草を 吸い出した 時だ
この時は かなり キツく 反抗ししたらしい
何十年か経ってからだが
母が 「あの時は お前(僕の事)が良く止めてくれた」と 言ってたから
反抗期って 無かったの? と 聞かれた
僕も無ければ 僕の息子29才 娘26才も 反抗期って 無かった気がする
女房に聞いても 「うちの子は無かったわ」で 「何故だい?」と聞くと
貴方が 子供みたいだから 一緒になって動くからじゃ無い と
そう言えば お袋から 散々 親父の悪口を聞いて
父に 女が出来て ああで 悪い こうで 悪いと 言われても
僕の 心の何処かで あのお袋に我慢してるんじゃ 親父が何かしても 仕方ないよな と
何処かで 思ってた
唯一反抗期らしき物は
お袋が 下手な 煙草を 吸い出した 時だ
この時は かなり キツく 反抗ししたらしい
何十年か経ってからだが
母が 「あの時は お前(僕の事)が良く止めてくれた」と 言ってたから
親父の話し 夏がぶり返しだ 月曜
2020年8月24日 日常 コメント (2)親父とは あまり話さなかった
いかにも 仲良く 話して 色々聞いて いる 親子みたいだが
親父が 死ぬ迄 1年間 2人で 夕食を食べ 布団を並べて 介護してた時に
聞いたのだ
なにせ 子供の頃は 妾つくって酷い親父だと 思ってた
妾の発覚は
僕が小学校3年の 終わりに お袋が 「ヨウちゃん ランドセルに教科書つめな」と 怒って
萩中の家をでて 慶応の志木の試験に落ちる迄つまり6年迄 親父と暮らしてない
中学は 大森3中だが 家から 1時間半かかる バス蒲田迄 JR大森まで バス中学迄で
通学が 長かったし 部活の時間も取れなかった 加えて 近所に友達は居ない で
高校に成って ラクビー部に入ると 眠くって 家に帰ると 飯を食べて直ぐ寝た
夜の12時頃 起きて1時か2時迄 勉強して 朝は8時に学校に飛び出して 行った
で 実は 親父の話しは お袋が死んで 親父が死ぬ迄の1年半の 間に
僕が 老人介護を し乍ら 2人で 暮らした時に 聞いたのだ
いかにも 仲良く 話して 色々聞いて いる 親子みたいだが
親父が 死ぬ迄 1年間 2人で 夕食を食べ 布団を並べて 介護してた時に
聞いたのだ
なにせ 子供の頃は 妾つくって酷い親父だと 思ってた
妾の発覚は
僕が小学校3年の 終わりに お袋が 「ヨウちゃん ランドセルに教科書つめな」と 怒って
萩中の家をでて 慶応の志木の試験に落ちる迄つまり6年迄 親父と暮らしてない
中学は 大森3中だが 家から 1時間半かかる バス蒲田迄 JR大森まで バス中学迄で
通学が 長かったし 部活の時間も取れなかった 加えて 近所に友達は居ない で
高校に成って ラクビー部に入ると 眠くって 家に帰ると 飯を食べて直ぐ寝た
夜の12時頃 起きて1時か2時迄 勉強して 朝は8時に学校に飛び出して 行った
で 実は 親父の話しは お袋が死んで 親父が死ぬ迄の1年半の 間に
僕が 老人介護を し乍ら 2人で 暮らした時に 聞いたのだ
本屋が消える 本通(広島)夏の天気
2020年8月23日 日常 コメント (1)最後に残った フタバ(ギガ)店も 8月30日で閉店と 張り紙が
今更ながら 今週は 何とか こまめに通って 1−2冊を毎回 買っているが
焼け石に水だろうな
レジの女の子が 「先生 あたし 職探しです 今から」と 本を渡してくれる
この子は 4−5年前の卒業生だ
20年程前に 広島に戻り 中電の裏に住み 本通の本屋を 3件ほど はしごして
やっぱり 古本屋を覗いて と 過させてもらったが
角の広文館が 丸善が 積善館 が 金正堂が フタバが と無くなった
来月から そごう の裏か紀伊国屋か 昔の 天満屋 の丸善まで 行くか
いっそ 駅まで行って と本屋が遠くなる
僕も 文明から 遠さるのかも
今更ながら 今週は 何とか こまめに通って 1−2冊を毎回 買っているが
焼け石に水だろうな
レジの女の子が 「先生 あたし 職探しです 今から」と 本を渡してくれる
この子は 4−5年前の卒業生だ
20年程前に 広島に戻り 中電の裏に住み 本通の本屋を 3件ほど はしごして
やっぱり 古本屋を覗いて と 過させてもらったが
角の広文館が 丸善が 積善館 が 金正堂が フタバが と無くなった
来月から そごう の裏か紀伊国屋か 昔の 天満屋 の丸善まで 行くか
いっそ 駅まで行って と本屋が遠くなる
僕も 文明から 遠さるのかも
広島 骨を撒きに 土曜日 晴れ
2020年8月22日 日常1)僕の父母は 原爆のとき 広島に 居た
戦後 食えないので
無医村を訪ねて 田舎をまわり を していた
でも 農協もでき 米穀通帳で お米が手に入るようになり 東京にでた
その時は 僕は2−3才だ だから ぼくの 記憶は 東京からだ
2)でも 親父もお袋も 所帯を初めて持った 広島が好きだった
3)テレコム言う会社で 37才から 営業をして50才に成った
すると 社長から お呼びが
「君は 東京本社でズートで仕事をしてきている 」 と 言い出し
『本社だけでは ダメだ 日本の地方を知らないと 日本がわからない』 と言うので
ならば「広島にして下さい」 と 頼んだ
すると暫くして社長が 廊下ですれ違った時に
「おい 辞令は いつ出せば良い」と 聞かれたので
「親父が あと 半年で 死にますから それ 終わってから」 と お正月に 言ったら
親父が 4月に亡くなって 6月に 辞令を 出してもらった
4)広島に赴任して 最初の日曜日
親父と お袋の 遺言どおり 骨を 海に撒きに 出かけた
戦後 食えないので
無医村を訪ねて 田舎をまわり を していた
でも 農協もでき 米穀通帳で お米が手に入るようになり 東京にでた
その時は 僕は2−3才だ だから ぼくの 記憶は 東京からだ
2)でも 親父もお袋も 所帯を初めて持った 広島が好きだった
3)テレコム言う会社で 37才から 営業をして50才に成った
すると 社長から お呼びが
「君は 東京本社でズートで仕事をしてきている 」 と 言い出し
『本社だけでは ダメだ 日本の地方を知らないと 日本がわからない』 と言うので
ならば「広島にして下さい」 と 頼んだ
すると暫くして社長が 廊下ですれ違った時に
「おい 辞令は いつ出せば良い」と 聞かれたので
「親父が あと 半年で 死にますから それ 終わってから」 と お正月に 言ったら
親父が 4月に亡くなって 6月に 辞令を 出してもらった
4)広島に赴任して 最初の日曜日
親父と お袋の 遺言どおり 骨を 海に撒きに 出かけた
省線で隣のオジさんが 午後雷雨 金曜日
2020年8月21日 日常以前の父と暮らせば と重複するが 勘弁下さい
(1)70年程前 農協法が 出来て 何とか整備され
米穀通帳さえ 有れば 定価で お米が 買える様になった
米穀通帳は身分証明書の代わりの様に 僕の小学校3年ぐらい迄は 効果が有った
政府が 農協の整備してくれた ので 東京でも お米が手に入るように成った
で 父は 無医村の 村営病院の お雇い医者を止めて 東京で 独立しようと 考えた
父曰く 子供の将来を考えると 田舎で 教育は 無理だ 此れからは 学問の時代だと
思って 子供の為に出たいと 思ったと
(2)で 東京へ向かう
その時に 省線(JRの事)で タマタマ 隣に座った オジさんと話しだした
で そのオジさんが 言うのには 「貴方 なにしに 東京に行きなさる」
と聞かれ「東京で医者を開業したい」と 話すと
相川さんと 言う オジさんが 言うのには
「 俺は 鉄工場を やって20人ぐらい職工を雇ってる
場所は蒲田と 羽田の 間の 萩中と 言う所だ
良ければ 家の土地を少し分けるから 其処で 開業してくれないか?」
「30万都合しろ 送って来たら 病院を建てといてやる 土地もやる」
「今は 工場で怪我人がでても 羽田か 蒲田まで 行かないと 医者が居ない
ドッチへ向かっても 一里は無いが 半里は 離れてる」 と
ウレシかったが 騙されてるのかとも 思った で 「貴方を信じて 大丈夫か?」と聞くと
「家まで 付いて こい 工場を見せれば 解るんだろ」 で 付いて行って 鉄工場を見せて
もらって 泊めてもらった
(3) 翌朝 医学校時代に 世話になった 旗之台(目黒と池上の間)の お医者さんで
昔 学生時代に 父の牧場で 乳搾りをして 名古屋医科専門学校をでた 方と 相談した
「よっちゃん(父のこと) 其処は 良い場所だ なぜなら 中小企業の工場が 此れからも
イッパイ出来る 東京と川崎と横浜の 下請け会社の場所だ
それぐらいの 所のほうが 怪我人も 病気の人も イッパイ出る
間違っても 立派な 住宅街に 行って 開業してはイケナイ 綺麗な住宅街では
病人も怪我人も少ない タマに 居るのは 気のふれた か ふれ罹った 奴だ」 と
(1)70年程前 農協法が 出来て 何とか整備され
米穀通帳さえ 有れば 定価で お米が 買える様になった
米穀通帳は身分証明書の代わりの様に 僕の小学校3年ぐらい迄は 効果が有った
政府が 農協の整備してくれた ので 東京でも お米が手に入るように成った
で 父は 無医村の 村営病院の お雇い医者を止めて 東京で 独立しようと 考えた
父曰く 子供の将来を考えると 田舎で 教育は 無理だ 此れからは 学問の時代だと
思って 子供の為に出たいと 思ったと
(2)で 東京へ向かう
その時に 省線(JRの事)で タマタマ 隣に座った オジさんと話しだした
で そのオジさんが 言うのには 「貴方 なにしに 東京に行きなさる」
と聞かれ「東京で医者を開業したい」と 話すと
相川さんと 言う オジさんが 言うのには
「 俺は 鉄工場を やって20人ぐらい職工を雇ってる
場所は蒲田と 羽田の 間の 萩中と 言う所だ
良ければ 家の土地を少し分けるから 其処で 開業してくれないか?」
「30万都合しろ 送って来たら 病院を建てといてやる 土地もやる」
「今は 工場で怪我人がでても 羽田か 蒲田まで 行かないと 医者が居ない
ドッチへ向かっても 一里は無いが 半里は 離れてる」 と
ウレシかったが 騙されてるのかとも 思った で 「貴方を信じて 大丈夫か?」と聞くと
「家まで 付いて こい 工場を見せれば 解るんだろ」 で 付いて行って 鉄工場を見せて
もらって 泊めてもらった
(3) 翌朝 医学校時代に 世話になった 旗之台(目黒と池上の間)の お医者さんで
昔 学生時代に 父の牧場で 乳搾りをして 名古屋医科専門学校をでた 方と 相談した
「よっちゃん(父のこと) 其処は 良い場所だ なぜなら 中小企業の工場が 此れからも
イッパイ出来る 東京と川崎と横浜の 下請け会社の場所だ
それぐらいの 所のほうが 怪我人も 病気の人も イッパイ出る
間違っても 立派な 住宅街に 行って 開業してはイケナイ 綺麗な住宅街では
病人も怪我人も少ない タマに 居るのは 気のふれた か ふれ罹った 奴だ」 と
戦後 都会は食えない 木曜日 晴れ
2020年8月20日 日常75年前の話しです
1)戸籍の届けが 遅れる
父は 結婚しますと 軍には 1945年の6月に届けたが
名古屋の区役所の戸籍係には 本家が届けて呉れて なかった
本家にしてみれば 空襲で 祖母も 叔母に当たる 妹も亡くなり家も焼け
血の繋がってない長兄も 生きるのに精一杯で それ所じゃ無かったのかも知れない
だから 新憲法が 出来る迄 婚姻届なしの夫婦で
終戦後 2-3年嫌な 思いをしたと 言ってた
でも 自分たちも 生きるのに 精一杯で
考える 暇は 有ったが 役所迄 出向いて ああしてくれ こうしてくれと言う
余裕も なかったのである
2)田舎と 漁村以外 は 食い物がない
知り合いでも 田舎に縁のない人は お米も 芋も手に入らない
そこで 田舎の 無医村が 住宅付き で 医者を募集していた
田舎に行き 岐阜の 朝日村 で 漸く 僕が 産まれた72年前だ
でも 給与が遅配に なり 村長にかけあっても 「無い物は無い」で 終わりだった
色々 ツテを頼って 静岡県の 焼津の 田舎の村に 同じ 社宅 付きの 医者の募集があり
何より タンパク質の 魚が 食べられるので 少しホットして 静岡へ出てきたと
所が ココも半年もすると お米と魚はくれるが 給与が 出なくなった
3)戦後とは言え 政府が お米の買い上げ と農協の仕組みを作ってくれて
東京に お米が 行く様になり 都会でも 生活できるように成って来た
ならば 食えるだけの静岡をでて
自分が 医学専門学校に 通った時にお世話に成った
名古屋の 農場で乳搾りをしていた 元の下宿人さん の
東京の病院に相談に行って
自分達も 東京に出でれないか? と 父は 一人で 東京に 向かった
1)戸籍の届けが 遅れる
父は 結婚しますと 軍には 1945年の6月に届けたが
名古屋の区役所の戸籍係には 本家が届けて呉れて なかった
本家にしてみれば 空襲で 祖母も 叔母に当たる 妹も亡くなり家も焼け
血の繋がってない長兄も 生きるのに精一杯で それ所じゃ無かったのかも知れない
だから 新憲法が 出来る迄 婚姻届なしの夫婦で
終戦後 2-3年嫌な 思いをしたと 言ってた
でも 自分たちも 生きるのに 精一杯で
考える 暇は 有ったが 役所迄 出向いて ああしてくれ こうしてくれと言う
余裕も なかったのである
2)田舎と 漁村以外 は 食い物がない
知り合いでも 田舎に縁のない人は お米も 芋も手に入らない
そこで 田舎の 無医村が 住宅付き で 医者を募集していた
田舎に行き 岐阜の 朝日村 で 漸く 僕が 産まれた72年前だ
でも 給与が遅配に なり 村長にかけあっても 「無い物は無い」で 終わりだった
色々 ツテを頼って 静岡県の 焼津の 田舎の村に 同じ 社宅 付きの 医者の募集があり
何より タンパク質の 魚が 食べられるので 少しホットして 静岡へ出てきたと
所が ココも半年もすると お米と魚はくれるが 給与が 出なくなった
3)戦後とは言え 政府が お米の買い上げ と農協の仕組みを作ってくれて
東京に お米が 行く様になり 都会でも 生活できるように成って来た
ならば 食えるだけの静岡をでて
自分が 医学専門学校に 通った時にお世話に成った
名古屋の 農場で乳搾りをしていた 元の下宿人さん の
東京の病院に相談に行って
自分達も 東京に出でれないか? と 父は 一人で 東京に 向かった
読経に来る 水曜日 晴れ暑い
2020年8月19日 日常父の子供の頃の話しなので 100年程は 古い話しだ
1)名古屋で 此れからは 牛乳の時代だ として 牛を飼い牛乳の配達を 祖父が始めた
場所は鶴舞と聞いている
祖父は もう遊びは済んだとして 芸者から引かした 美人の嫁さんを 離縁し
牛を扱える 非人の嫁さんを 連れ子(男)を嫡男にする条件で再婚する
祖母は 体が丈夫で文盲だったが シッカリ者だったと
牛乳屋の息子なので 父は 小さい頃から 牛乳を 近所に配って歩いてたと
また 豆腐屋に 祖父の 好物の 厚揚げを 買いに行くのが 父の仕事だったと
2)仕事が軌道に乗り出したころ 医学専門学校が側に 引っ越して来た
その時に 朝5時から 乳搾りを条件に 学生さんの下宿を始めた、下宿代は無料なので
父と姉は 下宿する学生さんに 勉強を教えてもらえたと 言ってた
3)祖父が 亡くなり 八事の 興正寺の 当家の歴代の墓に入れて貰ったと
で 月命日になると お坊さんが毎回 読経にくる
祖母は 女でもあり非人なので お寺さんに遠慮し
連れ子の長兄は 俺の血のつながった親父じゃない として 正座でかしこまるのを嫌がり
小学校も終わらない 父が 毎回 坊さんの 後ろで 読経を聞いていたと
4)父は祖母に 何で こんなに しょっちゅう は お坊さんが来る?月命日って何?
と聞くと 死んで 墓に 入ると 冥土の家賃を払わんとイカンのよ
よっちゃん(敬胤という)父のこと(読経を) 聞いといて と 言って
お布施を父に渡し 終わったら お坊さんに と 言って 居なくなったと
母が牛の世話も 殆ど 一人で やってたので
仏壇の前に 座って聞いてるだけで楽だけど
あまり 有り難く無く お寺さん 何の役に立つのかな?と 思い始めたと
1)名古屋で 此れからは 牛乳の時代だ として 牛を飼い牛乳の配達を 祖父が始めた
場所は鶴舞と聞いている
祖父は もう遊びは済んだとして 芸者から引かした 美人の嫁さんを 離縁し
牛を扱える 非人の嫁さんを 連れ子(男)を嫡男にする条件で再婚する
祖母は 体が丈夫で文盲だったが シッカリ者だったと
牛乳屋の息子なので 父は 小さい頃から 牛乳を 近所に配って歩いてたと
また 豆腐屋に 祖父の 好物の 厚揚げを 買いに行くのが 父の仕事だったと
2)仕事が軌道に乗り出したころ 医学専門学校が側に 引っ越して来た
その時に 朝5時から 乳搾りを条件に 学生さんの下宿を始めた、下宿代は無料なので
父と姉は 下宿する学生さんに 勉強を教えてもらえたと 言ってた
3)祖父が 亡くなり 八事の 興正寺の 当家の歴代の墓に入れて貰ったと
で 月命日になると お坊さんが毎回 読経にくる
祖母は 女でもあり非人なので お寺さんに遠慮し
連れ子の長兄は 俺の血のつながった親父じゃない として 正座でかしこまるのを嫌がり
小学校も終わらない 父が 毎回 坊さんの 後ろで 読経を聞いていたと
4)父は祖母に 何で こんなに しょっちゅう は お坊さんが来る?月命日って何?
と聞くと 死んで 墓に 入ると 冥土の家賃を払わんとイカンのよ
よっちゃん(敬胤という)父のこと(読経を) 聞いといて と 言って
お布施を父に渡し 終わったら お坊さんに と 言って 居なくなったと
母が牛の世話も 殆ど 一人で やってたので
仏壇の前に 座って聞いてるだけで楽だけど
あまり 有り難く無く お寺さん 何の役に立つのかな?と 思い始めたと
過去帳 火曜日 夏だが 朝晩涼しい
2020年8月18日 日常父と 長兄の いさかい を 書こうと 思ったが
僕の記憶が 不正確で 書けない
祖父 盛太郎 が 牧場を始め 牛を飼い 牛乳屋を始めたと 言うのは
父から 良く聞いて 居た
でも いつ頃 牧場をやめて 家作だけで 生きる様になったか
僕より年長の親しい 親戚も 今は 居ない
僕の記憶が 不正確で 書けない
祖父 盛太郎 が 牧場を始め 牛を飼い 牛乳屋を始めたと 言うのは
父から 良く聞いて 居た
でも いつ頃 牧場をやめて 家作だけで 生きる様になったか
僕より年長の親しい 親戚も 今は 居ない
葉書が 月曜日 晴れ 夏だ
2020年8月17日 日常 コメント (1)75年前の 話しで 失礼だが
(1)4月の初めに 父が南方の服役を終えて 広島に戻ったとの 葉書が
津の市民病院に 居る 父の姉に 届いた
姉も当時としては 珍しい 女医であった で
その市民病院に 新しく医者に成ったばかりの 将来の僕の母 父の妻で が居た
母に その葉書を見せると
(2) マラリアは治る? 結核じゃない? どんな人? と
姉は 私が 男に成ったら 弟と ソックリで 顔かたちも 良く似てるよと
それまで 母は 何回か見合いをしたが 国内に残っている お医者さんは
後妻さがしか うんと年が上か 結核で病弱しか 居なかった
結婚しないは 考えられなかったので この女医さんと 同じ性格なら
遣って行けるし 若いと 思い「イク」と 返事をしたと
戦争で将来も解らないが 今 迷ったり 選んだりする余裕は無かった と 言っていた
(3)で 行って 「やって行けると思ったら 結婚しよう」と 省電(鉄道省)の切符を買ったと
広島の 到着 日時と時間を 聞いて 葉書を 出した と
広島駅に 降りると ホームに葉書を持って 居る 軍服の 中尉の男が 立っていた
言われた通り お姉さん ソックリで お姉さんが 男になると こう成る と
いう 顔かたちで 「良かった」と 思ったと
(4)官舎も用意してあり 結婚式も(衣装を借りて 写真は 撮ったが)無かったが
官舎の皆さんに おめでとうを 言われ コレで 結婚出来たと 思って
2人で 暮らし始めたのは 6月だった
(1)4月の初めに 父が南方の服役を終えて 広島に戻ったとの 葉書が
津の市民病院に 居る 父の姉に 届いた
姉も当時としては 珍しい 女医であった で
その市民病院に 新しく医者に成ったばかりの 将来の僕の母 父の妻で が居た
母に その葉書を見せると
(2) マラリアは治る? 結核じゃない? どんな人? と
姉は 私が 男に成ったら 弟と ソックリで 顔かたちも 良く似てるよと
それまで 母は 何回か見合いをしたが 国内に残っている お医者さんは
後妻さがしか うんと年が上か 結核で病弱しか 居なかった
結婚しないは 考えられなかったので この女医さんと 同じ性格なら
遣って行けるし 若いと 思い「イク」と 返事をしたと
戦争で将来も解らないが 今 迷ったり 選んだりする余裕は無かった と 言っていた
(3)で 行って 「やって行けると思ったら 結婚しよう」と 省電(鉄道省)の切符を買ったと
広島の 到着 日時と時間を 聞いて 葉書を 出した と
広島駅に 降りると ホームに葉書を持って 居る 軍服の 中尉の男が 立っていた
言われた通り お姉さん ソックリで お姉さんが 男になると こう成る と
いう 顔かたちで 「良かった」と 思ったと
(4)官舎も用意してあり 結婚式も(衣装を借りて 写真は 撮ったが)無かったが
官舎の皆さんに おめでとうを 言われ コレで 結婚出来たと 思って
2人で 暮らし始めたのは 6月だった
2度目は 夜の出航だ 日曜日 晴れ
2020年8月16日 日常親父の 話しの続きだ で
(1)2回目の 撤退の船は 夜の出航になった
外人さんは 戦争でも 夜は 働かないらしい
もしくは 目視で確認しないと 魚雷が発射できないのかも
レイテ島 等迄 戻れた
レイテは日本軍が イッパイ居いた と
(2)父も少し気が緩んだのか 疲れたのか マラリアに かかった
そこへ また 出動命令が 下った 何と インパール (ビルマの奥でインド)作戦だった
コレは 生きて帰れないと 思ったと そんな遠くまで 行ったら帰れないと 思った
幾ら イギリス憎しでも そんな訳の解らない田舎と言っては失礼だが 山奥まで と
思ったら 生命力に限界が来たのか マラリアに 負けても良いやと 体が悪くなっても と
思ったのか 本当に高熱に成った
(3) 高熱にうなされている間に 部隊は インパールに向けて 出発してしまった
暫くして 回復して 本営に行くと
君一人の為に インパール迄 船も飛行機も出せない
マラリアが再発しては 医者として使えないので
本土に帰って 治せ と 船に乗せてもらった
医者が 病気のお蔭で本土に帰れるなんて
マラリアに感謝しなくちゃと 思った
で 船に乗ると
ガダルカナルと 同じ事が 起こった 船が撃沈されたのだ
違いは 夜の出航だったので 次の夜迄 助けはこない
1日は 炎天下と 夕方のスコール を 過さなければ 成らない
と 覚悟はしていた が
実際は 2日目の夜に成って ようやく漸く 救助が来た
煙草の火の お蔭で 早めに救助されたのは 今回も同じだった
次に本土に戻る船は 何とか無事に 敵の魚雷攻撃に会わなかった
その船は 広島迄しか 行かなかった ので 広島で下船した
(3) 広島の 大本営に 報告しに行くと
君の 本来 所属する部隊は インパールに いる(全滅したとは言ってなかった)
名古屋には 所属する部隊が無い、本隊がインパールから帰国するまで
この広島の陸軍病院で 勤務するようにと
日本迄戻れば マラリアは 再発しにくい 養生して 治す様にと
(4)葉書
で 三重県の津の病院に 勤務している 姉に手紙を書いた
一度 南方に行くと 2度目行けとは 陸軍は 命令しないだろう まして
マラリアの再発の心配もある
本隊が日本にない インパール迄 一人を運べないので
この広島の陸軍病院に 勤務せよと 口頭だが命令を貰ったと
(1)2回目の 撤退の船は 夜の出航になった
外人さんは 戦争でも 夜は 働かないらしい
もしくは 目視で確認しないと 魚雷が発射できないのかも
レイテ島 等迄 戻れた
レイテは日本軍が イッパイ居いた と
(2)父も少し気が緩んだのか 疲れたのか マラリアに かかった
そこへ また 出動命令が 下った 何と インパール (ビルマの奥でインド)作戦だった
コレは 生きて帰れないと 思ったと そんな遠くまで 行ったら帰れないと 思った
幾ら イギリス憎しでも そんな訳の解らない田舎と言っては失礼だが 山奥まで と
思ったら 生命力に限界が来たのか マラリアに 負けても良いやと 体が悪くなっても と
思ったのか 本当に高熱に成った
(3) 高熱にうなされている間に 部隊は インパールに向けて 出発してしまった
暫くして 回復して 本営に行くと
君一人の為に インパール迄 船も飛行機も出せない
マラリアが再発しては 医者として使えないので
本土に帰って 治せ と 船に乗せてもらった
医者が 病気のお蔭で本土に帰れるなんて
マラリアに感謝しなくちゃと 思った
で 船に乗ると
ガダルカナルと 同じ事が 起こった 船が撃沈されたのだ
違いは 夜の出航だったので 次の夜迄 助けはこない
1日は 炎天下と 夕方のスコール を 過さなければ 成らない
と 覚悟はしていた が
実際は 2日目の夜に成って ようやく漸く 救助が来た
煙草の火の お蔭で 早めに救助されたのは 今回も同じだった
次に本土に戻る船は 何とか無事に 敵の魚雷攻撃に会わなかった
その船は 広島迄しか 行かなかった ので 広島で下船した
(3) 広島の 大本営に 報告しに行くと
君の 本来 所属する部隊は インパールに いる(全滅したとは言ってなかった)
名古屋には 所属する部隊が無い、本隊がインパールから帰国するまで
この広島の陸軍病院で 勤務するようにと
日本迄戻れば マラリアは 再発しにくい 養生して 治す様にと
(4)葉書
で 三重県の津の病院に 勤務している 姉に手紙を書いた
一度 南方に行くと 2度目行けとは 陸軍は 命令しないだろう まして
マラリアの再発の心配もある
本隊が日本にない インパール迄 一人を運べないので
この広島の陸軍病院に 勤務せよと 口頭だが命令を貰ったと
煙草の火が 土曜日 晴れ 夏に成った
2020年8月15日 日常 コメント (1)父が 海に浮いた 話しの続きだ
(1) 六尺褌
で 船首から(大概 船は 中腹に穴があき 浸水して 船尾か 船首かを 下にして 縦に沈む)
飛び込んで 出来るだけ 船から離れ 船が沈む際に 出来る 渦から 離れないと
渦と 一緒に 海底に持って行かれる
渦に巻き込まれなかったら 沈没する船が 事前に 海に 流して呉れている 筏を 探して
その筏の 脇の 釘の棒見たいのに 救命胴衣の 胸の紐を クルッと 一巻きする
後は 六尺褌をほどいて 長ーく伸ばす 下着が無いと心配だが
海は 赤道の側なら 左程 寒くは無い
ガダルカナル近海には サメが居る サメは 自分より 大きいものは 襲わない
で6尺でも 褌が 長く たなびいて 居れば 小さな 足が ブラブラしてるより 安心だと
後は 夜に成るのを 待つ
(2)制空権
出航した船が 撃沈されたか どうかは 陸から見える
でも 救助は 夕方 薄暗くなってから しか 来ない
理由は 救助の小さな船でも 出航させると
上空から 敵の飛行機に 見つかったら 救助の船が やられて 危ないからなのだ
で 夕方に 日暮れに 成ってから 漸く 救助の船が 来る
ココで 煙草が役に立つ 煙草の火は 小さいが チラチラして 救助の小舟から
見えるのだ 当然 救助艇は 煙草を 吸ってる 筏の側を通るのだ
(3) 救助艇は 停まって 引き上げてくれない
戦時中は 救助艇は 停まって くれない ユックリと 筏の側を 走るのだ
救助艇からは 紐の先に 竹の棒とか 浮き輪 とか 着いたものが ユックリ流れて来る
その 竹ノ棒や 浮き輪に しがみつけば 助かる
つまり 自分の筏から 救命胴衣の 紐を 外して ユックリと 回って来る
浮き輪か 竹の棒まで 泳いで しがみつかないと 助からないのだ
でも怖がって シッカリ 紐を 結んだ人は 助けがきても 紐が解けない
(4) 今の世の中だけだよ 海難救助隊が ドバーと 出てくるのは
学校の勉強だって
塾も 家庭教師も アンチョコも 問題集も あって 手取り 足取り 教えるのは
本当か嘘か 解らないよ
自分で やらないと 何も出来ないよ と 父は 良く 言ってた
(1) 六尺褌
で 船首から(大概 船は 中腹に穴があき 浸水して 船尾か 船首かを 下にして 縦に沈む)
飛び込んで 出来るだけ 船から離れ 船が沈む際に 出来る 渦から 離れないと
渦と 一緒に 海底に持って行かれる
渦に巻き込まれなかったら 沈没する船が 事前に 海に 流して呉れている 筏を 探して
その筏の 脇の 釘の棒見たいのに 救命胴衣の 胸の紐を クルッと 一巻きする
後は 六尺褌をほどいて 長ーく伸ばす 下着が無いと心配だが
海は 赤道の側なら 左程 寒くは無い
ガダルカナル近海には サメが居る サメは 自分より 大きいものは 襲わない
で6尺でも 褌が 長く たなびいて 居れば 小さな 足が ブラブラしてるより 安心だと
後は 夜に成るのを 待つ
(2)制空権
出航した船が 撃沈されたか どうかは 陸から見える
でも 救助は 夕方 薄暗くなってから しか 来ない
理由は 救助の小さな船でも 出航させると
上空から 敵の飛行機に 見つかったら 救助の船が やられて 危ないからなのだ
で 夕方に 日暮れに 成ってから 漸く 救助の船が 来る
ココで 煙草が役に立つ 煙草の火は 小さいが チラチラして 救助の小舟から
見えるのだ 当然 救助艇は 煙草を 吸ってる 筏の側を通るのだ
(3) 救助艇は 停まって 引き上げてくれない
戦時中は 救助艇は 停まって くれない ユックリと 筏の側を 走るのだ
救助艇からは 紐の先に 竹の棒とか 浮き輪 とか 着いたものが ユックリ流れて来る
その 竹ノ棒や 浮き輪に しがみつけば 助かる
つまり 自分の筏から 救命胴衣の 紐を 外して ユックリと 回って来る
浮き輪か 竹の棒まで 泳いで しがみつかないと 助からないのだ
でも怖がって シッカリ 紐を 結んだ人は 助けがきても 紐が解けない
(4) 今の世の中だけだよ 海難救助隊が ドバーと 出てくるのは
学校の勉強だって
塾も 家庭教師も アンチョコも 問題集も あって 手取り 足取り 教えるのは
本当か嘘か 解らないよ
自分で やらないと 何も出来ないよ と 父は 良く 言ってた
入隊(軍医)金曜日 晴れ
2020年8月14日 日常100年では無いが80年近く前の話しだ
(1)父は 東京にでた 知り合い(下宿人)を 頼って 昭和医科専門学校(旗ノ台)に 入学した
(父の牧場の北側の昭和区鶴舞に 名古屋大学医学部か越して来たので
苦学生に下宿代無料 で 朝5時から乳搾りを お願いした
その苦学生の一人が 卒業後 東京で開業した )
当時は 大学か 医者に成らないと
兵隊に取られちゃうので ココなら受かりそうと 昭和医科専門学校を 受けたと
(2)でも 卒業で直ぐ 入隊となり 軍医だが 2等兵を6ヶ月(3ヶ月)しなくてはイケナイ
入ってみると上等兵に 殴られる 毎日が続いた
「お前ら軍医は 敵の球の来ない所に居て
どうせ 俺たちの 治療はしないのだ 見捨てるのだ」と
一月ほどして 剣道の試合があり 有る程度 出来たので 少し殴られなくなった
この事から 何か体操が出来ないと 困るぞ と 父は 何度も僕に繰り返し言った
(3)名古屋城の部隊に入ったので 休みの度に 母親と妹が お城迄 ご飯を持って来てくれる
大丈夫かい と聞かれるので 上手くやってるよ と答えるのだが
速く 軍医として 扱ってくれ が 本音だった と
漸く 南方に配属となった 場所は 南方としか 知らなかった
長い船旅で ついて見ると ガダルカナル と 言う ソロモン群島の 中で
小さな 飛行場だった と
(4)着いた時までは 日本軍の 気がした
軍は 意気軒昂で ダーウンの空爆に参加したとか
シドニー迄 まで 爆撃に行くと 言う
でも落ち着いて 周りを見てみると 実際は違った
飛行機の数も少なく 制空権も無くなり
防空壕の中で 縮こまる毎日が 続いた ある日 撤退命令が でた
将校なので 撤退する船でも 多少 デッキの上の方に居た
港を でると 直ぐに 敵の潜水艦 から 魚雷が来る 何回かは 避けるのだが
やはり 当たって 沈没 することに なる 軍服では 泳げない
将校なので 助かったら 直ぐに軍服を買わないとイケナイ
それで軍服を買う為に 軍票を 頭の上に それに 煙草とマッチ
あとは 救命胴衣を着てと 6尺褌を確認し
煙草とマッチを 濡らさないように 手ぬぐいで 包み
頭の上にのせ 帽子をかぶり 沈みつつある 船の 一番 高い所まで 行って
出来るだけ 遠くへ 飛び込む
船のそばに 居ると 船が 水没する時の 渦に 引き込まれる
で 船から 沢山 流れでて いる 救命筏まで 泳ぐ
救命筏から 外に飛び出している 釘 に 救命胴衣の 紐を クルッと 一回だけまわして
後は 夜に成るのを待つ
この1回だけクルッが 凄く 恐い 水温が 暖かいので 眠くなるのだ
ウツラウツラして 知らない間に クルッが 一回だけだと
外れて自分が流れて行ってしまわないかと 心配なのだ
でも 間違っても 紐を縛っては イケナイのだ
水の中に4−5時間を超えて 長い間いると 指がふやけて
縛った紐が 解けないのだ 助けが着た時に 紐が解けないと
助けは紐を切ってくれないし 待ってくれない
父から 何度も この話しは 聞いた で 父は 小学校の1−2年の僕に
水泳は 速く 泳がなくても 良いが 浮いてる事だけは出来る様に
と 逗子の海水浴で 僕を背中に載せ乍ら 泳いで 何度も 僕に教えた
(1)父は 東京にでた 知り合い(下宿人)を 頼って 昭和医科専門学校(旗ノ台)に 入学した
(父の牧場の北側の昭和区鶴舞に 名古屋大学医学部か越して来たので
苦学生に下宿代無料 で 朝5時から乳搾りを お願いした
その苦学生の一人が 卒業後 東京で開業した )
当時は 大学か 医者に成らないと
兵隊に取られちゃうので ココなら受かりそうと 昭和医科専門学校を 受けたと
(2)でも 卒業で直ぐ 入隊となり 軍医だが 2等兵を6ヶ月(3ヶ月)しなくてはイケナイ
入ってみると上等兵に 殴られる 毎日が続いた
「お前ら軍医は 敵の球の来ない所に居て
どうせ 俺たちの 治療はしないのだ 見捨てるのだ」と
一月ほどして 剣道の試合があり 有る程度 出来たので 少し殴られなくなった
この事から 何か体操が出来ないと 困るぞ と 父は 何度も僕に繰り返し言った
(3)名古屋城の部隊に入ったので 休みの度に 母親と妹が お城迄 ご飯を持って来てくれる
大丈夫かい と聞かれるので 上手くやってるよ と答えるのだが
速く 軍医として 扱ってくれ が 本音だった と
漸く 南方に配属となった 場所は 南方としか 知らなかった
長い船旅で ついて見ると ガダルカナル と 言う ソロモン群島の 中で
小さな 飛行場だった と
(4)着いた時までは 日本軍の 気がした
軍は 意気軒昂で ダーウンの空爆に参加したとか
シドニー迄 まで 爆撃に行くと 言う
でも落ち着いて 周りを見てみると 実際は違った
飛行機の数も少なく 制空権も無くなり
防空壕の中で 縮こまる毎日が 続いた ある日 撤退命令が でた
将校なので 撤退する船でも 多少 デッキの上の方に居た
港を でると 直ぐに 敵の潜水艦 から 魚雷が来る 何回かは 避けるのだが
やはり 当たって 沈没 することに なる 軍服では 泳げない
将校なので 助かったら 直ぐに軍服を買わないとイケナイ
それで軍服を買う為に 軍票を 頭の上に それに 煙草とマッチ
あとは 救命胴衣を着てと 6尺褌を確認し
煙草とマッチを 濡らさないように 手ぬぐいで 包み
頭の上にのせ 帽子をかぶり 沈みつつある 船の 一番 高い所まで 行って
出来るだけ 遠くへ 飛び込む
船のそばに 居ると 船が 水没する時の 渦に 引き込まれる
で 船から 沢山 流れでて いる 救命筏まで 泳ぐ
救命筏から 外に飛び出している 釘 に 救命胴衣の 紐を クルッと 一回だけまわして
後は 夜に成るのを待つ
この1回だけクルッが 凄く 恐い 水温が 暖かいので 眠くなるのだ
ウツラウツラして 知らない間に クルッが 一回だけだと
外れて自分が流れて行ってしまわないかと 心配なのだ
でも 間違っても 紐を縛っては イケナイのだ
水の中に4−5時間を超えて 長い間いると 指がふやけて
縛った紐が 解けないのだ 助けが着た時に 紐が解けないと
助けは紐を切ってくれないし 待ってくれない
父から 何度も この話しは 聞いた で 父は 小学校の1−2年の僕に
水泳は 速く 泳がなくても 良いが 浮いてる事だけは出来る様に
と 逗子の海水浴で 僕を背中に載せ乍ら 泳いで 何度も 僕に教えた
天皇陛下 万歳 木曜日 晴れ
2020年8月13日 日常75年前の 父母の 話しを 書いてる
(1)玉音放送
父には 終戦の時の 玉音放送の「 忍びがたき」の 記憶が無かった
言いたく無いのか 忘れたいのかと 思ったて 聞いてみたが 違って
官舎の裏の防空壕に 大竹や 呉から 顔見知りの 衛生兵が訪ねて来てくれ
玉音放送の 有る事は知ってたし 内容は 負けたと言う事を言うのも知ってた
広島の大本営は お城に有ったし 将校だから お城の大本営まで 行ったのかも知れない
岐阜の田舎に返した母とどう会うのか 自分が どうやって 食べるのか
名古屋の実家にどうやって 帰ることしか 考えてなかった
(2)俺たち国民は 戦争で何回も 天皇陛下と 言う言葉に 騙されてるよ
兵隊さんが 戦場で 恐くなって どうして良いか解らない時に ワーって言って塹壕から
飛び出して 相手に 打たれるのだよ 打たれる方も 危ないのは 解ってるから
やけっぱちで 死んでも良いと 思って出てくのだよ だから 天皇陛下万歳って 叫ぶのだよ
この言葉を 聞く度に「アーまた死んで行った」と 思って
俺は卑怯かも知れないが 防空壕の中で縮こまってたよと
でも 格好が悪くって 困った時が 後で考えると 良い時なのかも知れないよ と
(1)玉音放送
父には 終戦の時の 玉音放送の「 忍びがたき」の 記憶が無かった
言いたく無いのか 忘れたいのかと 思ったて 聞いてみたが 違って
官舎の裏の防空壕に 大竹や 呉から 顔見知りの 衛生兵が訪ねて来てくれ
玉音放送の 有る事は知ってたし 内容は 負けたと言う事を言うのも知ってた
広島の大本営は お城に有ったし 将校だから お城の大本営まで 行ったのかも知れない
岐阜の田舎に返した母とどう会うのか 自分が どうやって 食べるのか
名古屋の実家にどうやって 帰ることしか 考えてなかった
(2)俺たち国民は 戦争で何回も 天皇陛下と 言う言葉に 騙されてるよ
兵隊さんが 戦場で 恐くなって どうして良いか解らない時に ワーって言って塹壕から
飛び出して 相手に 打たれるのだよ 打たれる方も 危ないのは 解ってるから
やけっぱちで 死んでも良いと 思って出てくのだよ だから 天皇陛下万歳って 叫ぶのだよ
この言葉を 聞く度に「アーまた死んで行った」と 思って
俺は卑怯かも知れないが 防空壕の中で縮こまってたよと
でも 格好が悪くって 困った時が 後で考えると 良い時なのかも知れないよ と
在所は何処だね 水曜日晴れ暑い
2020年8月12日 日常僕の産まれる前の父母の話しですから 聞き間違え等 ご容赦下さい
意識不明の父は3日 防空壕で寝ていましたが 家の無いのは父母だけでなく
軍の官舎も あらかた吹き飛んで居ましたので
防空壕の中に 官舎の軍人の家族が 一杯居ました
母は 「新型爆弾」と 皆が言ってたこと 「負けた」 「食い物が無くなる」
と言う事は 噂として聞いてたと 言ってました
意識が戻った父は 動いていた市電に乗って 陸軍病院に 出頭して見ると
病院も 瓦礫の山だった で 「尋ね人」を探す人が声をかけて来るが
答えられなかった でも 其処に来た人達と 話していると 呉から応援の人も来て呉れ
「原子爆弾」と言う言葉を聞き 驚いたと言ってました
また 「負けるらしい」と 「在所に 帰らないと 食い物も無いぞ」 と言う事は 解った と
それで
軍票が使える間に 中尉殿と 言ってもらってる間に 女房を実家の
岐阜県へ逃さないと イケナイと思い始めたそうです
自分は 終戦迄 軍に居なければと 思っていたが 相談相手が居ないのです
暫く 病院の瓦礫の上で佇んで 来る人と話しあって 居ると
親切にしてくれた 上官が 生きてる事がわかった
戸坂か祇園か 可部か 忘れたが 可部線の奥に 居るとのことで
その足で訪ねて行った JRは 動いていた すると その上官は
君の本隊は 名古屋第?師団で インパールで全滅している
ココで手伝ってもらって居るけど 帰属師団では無い
兵隊の解散の事務手続きは
名古屋師団が行う事になる(全滅して存在しないのに)と
広島は軍医が不足してたので パラオから帰って君を使っていたけど
今後の面倒は 自分で見なさい と 言って呉れたと
で 在所は(田舎は)何処だねと 聞かれ
広島近辺に知り合いがないと 飯も食えんよと
本当に 農家と知り合い血縁でないと 食べ物が 亡くなりそうだった と
仕方が無いので
で 国鉄に切符を買いにいくと 動いていて 軍票でも買えたので
女房を 岐阜県恵那郡加子母村 まで 返す事にして
終戦を 待ったと
意識不明の父は3日 防空壕で寝ていましたが 家の無いのは父母だけでなく
軍の官舎も あらかた吹き飛んで居ましたので
防空壕の中に 官舎の軍人の家族が 一杯居ました
母は 「新型爆弾」と 皆が言ってたこと 「負けた」 「食い物が無くなる」
と言う事は 噂として聞いてたと 言ってました
意識が戻った父は 動いていた市電に乗って 陸軍病院に 出頭して見ると
病院も 瓦礫の山だった で 「尋ね人」を探す人が声をかけて来るが
答えられなかった でも 其処に来た人達と 話していると 呉から応援の人も来て呉れ
「原子爆弾」と言う言葉を聞き 驚いたと言ってました
また 「負けるらしい」と 「在所に 帰らないと 食い物も無いぞ」 と言う事は 解った と
それで
軍票が使える間に 中尉殿と 言ってもらってる間に 女房を実家の
岐阜県へ逃さないと イケナイと思い始めたそうです
自分は 終戦迄 軍に居なければと 思っていたが 相談相手が居ないのです
暫く 病院の瓦礫の上で佇んで 来る人と話しあって 居ると
親切にしてくれた 上官が 生きてる事がわかった
戸坂か祇園か 可部か 忘れたが 可部線の奥に 居るとのことで
その足で訪ねて行った JRは 動いていた すると その上官は
君の本隊は 名古屋第?師団で インパールで全滅している
ココで手伝ってもらって居るけど 帰属師団では無い
兵隊の解散の事務手続きは
名古屋師団が行う事になる(全滅して存在しないのに)と
広島は軍医が不足してたので パラオから帰って君を使っていたけど
今後の面倒は 自分で見なさい と 言って呉れたと
で 在所は(田舎は)何処だねと 聞かれ
広島近辺に知り合いがないと 飯も食えんよと
本当に 農家と知り合い血縁でないと 食べ物が 亡くなりそうだった と
仕方が無いので
で 国鉄に切符を買いにいくと 動いていて 軍票でも買えたので
女房を 岐阜県恵那郡加子母村 まで 返す事にして
終戦を 待ったと