朝は お空が持っていたが 昼からは 雨が降り出した

エレベーターで一緒になった 女の子が

広島に 真っすぐですものね と

興奮して 話していた

若いって そんな事にも 興奮するんだ 


犬が 遊んでくれ と来るのだが 暑くって 外に出れない

冷房の効いた所は 犬が行く所でないので

犬2匹と 人間2人が 家にいる

明け方と 夕方遅く 犬の散歩の時間だが

チビの 花子は まだ 怖くって 外が 歩けない
学生運動をしていた 方々が

 「マー50年経ったから あの時 日和見してた お前(僕の事)も 参加して良いよ

何か 書け」 と

言って頂いたので 書き始めたら 自叙伝 見たいに成りました

で 父と母は 原爆の後で 母を先に郷里の岐阜の山奥へ 逃がすのですが

送るとは 言ってなかった 逃がすと 言っていました

JRは 動いていたのですが 切符も手に入らず また 

父は 広島の軍医の勤務を除隊して良いとの命令を 受け取らなければ

動けず 南方に出征した時の 名古屋の部隊は全滅で 連絡が取れず

広島で グズグズして いて この台風にあっているのですが

「台風も ひどかった」けど 原爆が「もっと ひどかったから」と しか 言わず

で 「なにも人に 言えるような事はないよ  ひどすぎて 思い出すだけでも」と

しか言ってませんでした


その8

JRの携帯電話屋( J-ホンと言ってました)が僕の仕事かな? 

と思ってましたが  R西の尼崎の事故が起こります

JRが会社を外資に売った際に (ボーダホンと成りました)

もう外国人の下では働けんと  思い悩んでいたら

大学の教授と成らんかと声をかけて頂き 更に

ラクビー部のご縁で 帝京大学のラクビー部の部長となり 

今 定年70歳 を迎えて 毎日が日曜日です

でも 安田講堂の時の 独りでテレビを見ながら 

ろう城 する勇気も 応援に 駆けつける 同情心もない 自分に

如何に 小ずるい人間なんだ 僕はと 

悲しかった事は 今でも 残ってます
眠くなるほど 熱い のだが 

昼寝すると 

朝 早く3時とか4時とかに   目がさめるので

coffeeを淹れて 飲んで ガンバッって 

起きてる

朝は 涼しくて クーラーも要らなくて 気持ちよいけど
7:ブラジルで ホゲホゲ暮らしていたのですが ナカナカ休ませてくれません

アフリカに アンゴラと言うポルトガルの植民地があり 僕はポルトガル語を使う

ブラジルの留学生だったので 住友商事の人事は 浅井なら言葉も分かるし

体力もあるから と 思ってか 

革命で共産化した アンゴラに 赴任する事になりました

そこで その国の通信省にその国全体の電話網(パラボラ送信機 市外電話網 )を

納入する 通訳をしていたので 「浅井は通信の専門家ではないか」と錯覚され

日本の通信の自由化のさいに JR(旧:国鉄)の携帯電話屋となりました


父は 原爆を悪く言いませんでした

負ける戦いを 強いる 上司に ついていっても 何も成らない

原爆は 酷いけど あれが無ければ 「日本人は うちてしやまん」が止まらなかった

天皇陛下万歳は 

絶望した兵隊が 相手の玉に当たるために 飛びしていく 時に

サヨナラ と 言う 言葉だったよ

俺は よう 日の丸も 君が代も歌えん と 言ってました


その7

安田講堂の お陰で 入学が一年無く

卒業も 5月になりました

いち早く 革命に見切りをつけた 僕は  住友商事に 就職して

仕事だけだと 体力を持て余すので スペイン語を1時間早く出社して

習ってましたら   おい スペイン語と ポルトガル語は似てるだろ

と ブラジルの留学生に させてもらました


その後 安田講堂の時は 自己嫌悪もあってか

敢えて関わらないとして ラクビー部仲間を「麻雀をしよう」と 誘いました

どうせ見ても仕方ないと 仲間に 言って 麻雀の準備をしました

しかし 友人達は 今日の安田講堂の 攻防は ただ物ではない

 現場で見るのと TVでみるのとは 違うぞ と ナカナカ集まらず

集まってくれたのは 夜の10時を過ぎていて 麻雀に なりませんでした

独りで皆を待つ間  テレビを寂しく見て ました

(5)
対応も急に丁寧になり 

白茶(バイチャ)を出すから との事で 待っていると 

小さな急須と 小さな茶碗と お湯の入った水筒が運ばれ

僕を逮捕した学生さんが ニコニコとしながら

部屋の隅で 水筒のお湯を お茶碗にそそぎ 

指でゴシゴシと お茶碗に ついた汚れを落としてくれます 

汚いお湯は 部屋の隅に ポイッと 投げ捨てます

此れを2−3回繰り返した 後で

水筒のお湯を  お茶碗 いれ 

はい 白いお茶です と 出してくれました

「助かった嬉しさはありましたが

 この貧しさは 僕には ついて行けない 

貧しさに負けたボンボンの 僕だ  もう革命は止めよう」

と思いました
広島のこの時期は

シュプレヒコールの 人よりも お巡りさん と 私服の(お巡りさん)の数の方が多い

まして 僕の住んでるマンションは 平和公園が近いので 

朝から 何回かデモの方が来る 

以前は 他県の機動隊のバスも随行してたが 今年は 目立たない

それにしても 国家として

悲しみを 思い出すにも お金がかかるのだなと 思う


原爆の日 爆心から2.5km程 離れた 己斐(こい=鯉)の官舎に居た

母は  出勤する父に 行ってらっしゃいをして 部屋にもどて休んでたら

蝉が 一瞬 鳴かなくなって 世の中がシーンとして

オカシイと思って家を出たら 家が崩壊し 何か準備をしないと と思って

父が 帰る迄  家にわずかに残っていた お米をかき集め

壊れた家の 材木で お米を炊いて 塩のおにぎりに していた  と 言ってた


8歳のチワワ(祝) と4ヶ月のチワワ(花子) の2匹での お散歩だ

恐がりの花子は 玄関を出れない マンションの扉の外は 歩けない

抱っこしなきゃ 動かない と  這いつくばってる

そしてお散歩の 紐をつけたら 怖がってへたり込む

でも 8歳の祝が 待っててくれて 少しずつ 

抱っこで散歩の見学 から おすわり を 繰り返し

 平和公園の脇の土手で 漸く

紐はなしで 歩き出した 

恐がりなのだろう 時間が かかるが 自分で何とかするだろう




(4)
香港でおり 深圳の橋を徒歩で渡り 

憧れの中国にはいりました

北京についた 翌日の朝一番で 北京大学を散策し 

立て看板の写真を撮っところ

「台湾の富裕分子がスパイをしてるのでは」として捕まり 

小部屋に入れられ 待っていると 

何とか委員が来たのでと 幹部の部屋に連れていかれ

偉そうな女性幹部から色々聞かれ 

最後はフィルムの没収だけで 許せ と 言って頂き 

「あー日本に帰れる」と 胸をなで下しました
(3)暫くして 

横須賀で 写真を撮られたせいか 

無くなった財布と免許証と学生証のせいでしょうか

警察からお達しがあったらしく 父が 

「せっかく東大まで 行ったんだから (デモを) 止めて くれないか?」と

寂しそうな 顔で 言います

僕は

「止めれん ロシアは信じられないが 中国の毛沢東は本物だと 思う 

中国を見てみれば 日本も社会主義に成るかどうかが 分かる 

分かれば 止める事もできるから 行かしてくれ」と

 当時のお金で11万を親から貰い 中国に行きました

 多分初任給が1万5千円くらいの時期でした

 大学の2年生だったと思います
昨日の夕ご飯は 女房が宮島から 上野の穴子飯を 持って来た

前回 鰻の 愚痴を言ったのを 覚えていたらしい

桜ご飯と 穴子の組み合わせの方が     口に優しい

でも ぎょうざ あな と 最初に読んでしまったので

穴子飯(アナゴめし) とわかるまで 少し古い昔の時が流れた

戦前の下関鉄道局と 書いてある

親父がガダルカナルから  パラオを経て 広島に帰ったときは

この 駅弁のように 右から文字を書いていたのに

米国のABCに押されて 左から書くのに 付いて いった と言うか

仕方ない 外人さんの 言う方向に書こうと

日本人の 器用さは 素晴らしいと 思う

その3は 明日にします
(2)横須賀につくと 民青の僕を指導してくれた方が

 「浅井君は ラクビー部だ 体がシッカリしてるから 

左の一番前だ 竹筒を放すな」と指示します 

僕が「貴方は?何処に?」と聞くと

「僕はねー 警察に面が割れてるから」と何処かに消え去りました

 で 後は ジグザク行進して 写真取られ 水をかけられ こん棒で殴られ 

粉砕されてメガネも 靴下の底に入れた金もなく 

横須賀駅の改札に 逃げ帰りました

 駅員さんが「デモですか?」と聞くので「はい」と答えると

「どうぞ」とJRに乗せてくれました 

京浜東北線の 蒲田で 降りるときも 

駅員さんが「横須賀ですか ご苦労様です」と敬礼して頂きました。 

駅から裸足で 家に帰ると 父母が心配して玄関にいました
何を書いたんだ と 問い合せありましたので

添付します

「白いお茶」とノンポリ学生の横須賀デモ


(1)50数年前 大学の1年生の僕は

デモをする学生をみてカッコ良いなと思いました

でも 当時の方々は 僕を

「東京の医者のどら息子が 車で駒場に来る?許せん」と

鼻も引っかけてくれません

仕方なく  民青さんの  歌声喫茶に参加すると

「会費を納めろ」と 何か違う気がします 

しかし 原子力航空母艦エンタープライズの 横須賀寄港を許すなとの声に 

父母が広島で原爆をくぐり抜けた事もあり 

民青さんに「会費は今後払うから」と デモへの参加を お願いしました
アンケートに回答したら 東京から 出てコイと メールが来た

行くと 広島に帰りたく無くなってしまう

故郷は 遠きにありて 思うもの と 思って諦めてる

いま 大手町や 銀座に 降り立っても

昔の面影 今何処 の お上りさんに成ってる

息子も 娘も 東京で 就職して 狭いアパートで 暮らしてる

まさか そこに 居候もできない
締め切りが 7月末なので  

気にかかっていた アンケートを 

朝3時から起きて書き始めた

自分の1生を振り返るようで 切ない

浅間山荘 と よど号ハイジャックは

同じ仲間だった者が あそこ迄 と 思いながら

僕は 一抜けた と 住友商事で ブラジルに 赴任していた
ラクビーやってるよ と 娘から ラインが

そうだ 3年前迄 東京で ラクビー部の 部長をしてた

もっとも 授業も  少ししてたが

グランドの背景に  釜石の 山をみると

釜石を超えて 青森に入り 八戸に 事務所を構えていた頃を 思い出す

あれは 息子がまだ生まれた頃だから25年は前だ

皆が 左遷?と 心配してくれた
ナゼか 鰻の 弁当を 義理で食べなくては 成らなくなった

知り合いとか 年寄りとか 色んな繋がりで

立派な お弁当箱と包み紙と 結び紐に入った 2500円と 3000円のお弁当を

食べて どちらが 美味しいかを とか 言わなくては成らないハメになった

浜松の鰻を 年に 1−2度 親父に連れて行ってもらって以来

自分で就職したら 初給与で お代わりするんだと 言うほど 好きな 鰻だったが

年なのか どちらも 皮が硬いし 身が締まりすぎてる 

お弁当なので チンしてみたが あまり進歩は 無かった

女房が先週 家で 出してくれた 半身の 鰻の方が 美味しかった と 言いたいのだが

周りの人に 遠慮して 年寄りの 夏バテですかな と ご飯を 残してしまった

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