金髪で 小柄で 小太りの 若い女の子 多分 15−16歳かなー が

本通を 携帯を見ながら 歩いている  時々 立ち止まって 周りをみて 携帯をいじって

また 歩き出す 意外と早足である 犬の散歩で 抜いたり 抜かれたりしていたのだが

突如 彼女が 吉野家の前で 携帯を眺めて 止まってしまった

キット 道が分からないのかな と 話しかけると

微笑んで ポケモンGOの画面を見せてくれた 獲得の得点も教えてくれた

残念だが 僕には 得点が高いのか低いのかも 分からない

で 僕は 英語で 話しかけているのだが  彼女は 身振り以外の回答をしない

でも 別れるときは チャンと サヨナラと 日本語で 言ってくれた

僕たちは 意志はちゃんと通じてる  世の中 ポケモンGOさえ有れば

英語の会話は 要らないのかも
大森山王小学校からは  大森第3中学に行く

全国一大きな人数の中学校で

1学年 900名ぐらいで  A組B組C組とはじまってQ組まで 有った気がした

クラスで1番でも 学年で18番と言う事に成る 成績も気になったが

通学にバス電車バスと 1時間半ぐらいかかった 

一緒に登校する 友達も 夕方遊んでくれる友達も出来ずに

困ったけど 両親が一緒に暮らしてくれて ホットした
家庭教師に怒られて 夫婦が同居する事になった らしい

何かの儀式なのだろう 温泉旅行と成った

湯河原だったか? 何処かの 伊豆の温泉に行った

お正月だった と 思う 霧で外はよく見なかったが お風呂と  ご馳走の 繰り返しだった

で 新しい小学校は 年明けの1月の最初の日だけ 馬込から通い 次の週からは

羽田の萩中からバスで蒲田駅 そして電車で大森駅まで 

それから 山王小学校まで 歩いて通った 

サラリーマンが通勤で駆け下りる 大森の階段の端を 一人で登って 駅前にでた

ここは 苛められる ヒマも 無い間に 友達が2人できて ウレシかった
12月に 不合格の通知を 受けて 加えて

私学の小中一貫校なので 他の私学の試験を受けただけで 

自主退学を 勧められた 

マイナーな私学が 慶応に焼きもちでは無いか とか と 僕は思ったが

母は 学問は自由だよ そんな学校は辞めな と 強気を崩さない

で 住民票のある 馬込の 区域の小学校は 山王小学校なので 

大森駅から 歩いて行ける 山王小学校に 6年生の1月から 3月迄

転校する事に成った

公立は 直ぐ入れて呉れて 助かった  

教科書はもう 卒業迄 2ヶ月なので 揃えなくて良いと

慶応を受験して2次まで 行ったので 落ちても 学力は大丈夫でしょうと 

気楽だった 住民票って こんな時に 使うんだ と 思った
面接だけの3次試験だった

家庭教師は もう受かりましたよ 父親も母親も医者でしょ  

あの 面接は 慶応に お妾さんの お子さんを 入れない為の 首実検ですよ

問題有りません と 喜んでた で 僕も親も それを信じた 

しかし 世の中 そう 上手くは 行かない 不合格の通知が 来たのだ

怒ったのは 家庭教師の先生だ

妾の子でなくて 片親でなくて 夫婦ともに医者で 

学費の 支払いも 問題ないのが 落ちるはずがない

よっぽど 夫婦仲が 悪く 別居中に 思えた 

学校にしてみれば  まして有名な私学なら 片親の子は 入れたく無いのが常識でしょ と

烈火の如く 怒った 自分たちの仲違いで 子供の将来を ダメにするのですか と


朝 犬を連れていると 袋町公園で

ニューヨークの隣のニュージャージから と 男2名と女1名に

キャー可愛いと 犬を抱っこされた  でその足で 平和公園に行くと リスボンからの夫婦と

久しぶりでポルトガル語で話しをした  何と言葉がナカナカ 出て来ない

そう言えば 中国人の人に 何処から?(従-ツォン何里-ナリー)と話しかけたのだが

中国語は全く出て来ない 年を取るのは 脳の中から 探して来るスピードが遅れるのだ

英国のウエールズ の 美人フィンと東京にいるマシューが 歩いていたので 話しして

カナダから来た フィリッピン系 ジュリ?と カンボジアのシンシア?を 広島城に 案内した

犬を連れた おしゃべり オジさんだ 僕は
慶応の普通部(日吉)は2次で落ちたが  

志木(今 googleで中等部は無さそうだが 当時あったのだろう 僕が 落ちたから)なら 

2次も 通って 父兄との面接だけ と成った

此れは  両親と僕との3人の面接だった

羽田の家から 志木までは遠かった 

久しぶりに両親が揃って僕は ウレシかった

品川駅で待ち合わせ 池袋から志木までは 遠く 凄い 田舎だと 思った

母に どうやって通うの? と聞くと 引っ越すから大丈夫と 言われた

大森駅から 馬込も 田舎だけと 池袋から志木はもっと田舎だと思った

私立の小-中一貫校だったので 小学校6年になっても お受験ムードは 無かった

むしろ 他の中学受験をされると 人数が減るので 困ると 言った雰囲気だった

でも 僕は 慶応の中等部を 受けるので  ひたすら 内緒 内緒で 受験勉強をしてた

悪い事は出来ないもので 慶応の試験を 受けに行くと

顔見知りの先生が 試験管の一人に居た 

何と僕の私立の 校長先生の自慢の息子さんで慶応の先生なのだ

息子さんも 良く 学校の運動会とか 顔だしてたので ドッカで見た顔だと 思ってた
最初に 母から 神田の日曜学校に 行きなさい と 言われた時

僕は 絵本で見た 海外の 教会に日曜日に集まる 学校みたいなのを 思い浮かべた

綺麗な洋服で おしゃれして 牧師さんの話しを聞くのか と思い込んでた

で 母が キリスト教 になって 僕もアーメンをしなくてはイケナイのか? と 思った

で 最初の日曜日 母は 眠たい目をこすりながら  僕の手をひいて 神田迄 来た

アーメンのはずが  日本の神社の境内に集合だった 

すると 父兄の方は 此処迄です と 言われ

「洋ちゃん 自分で 帰れるね」 と お金を 渡してくれて 母は帰って行った

それから 毎週 日曜日は この 神田迄 一人で 往復すること に成った

6年生に 成ったころ 家庭教師の 家に 居候した 成果が 出始めて

有名校をお受験を する事に なった  

全科目を 教えられないと 家庭教師の先生が言い出し

母と過ごす 日曜日は 6年生に成ってすぐ 朝から  神田の 予備校に 行く事に成った

名前も 覚えてないが 神田駅を 秋葉原よりの 北口にでて 小さな神社の見える

北向きの 寒い 部屋だった 成績は100蕃まで の名前が 張り出され 一度だけ

70番くらいに成った お昼は 駅のキヨスクの パンか 駅の側の 立食いウドンだった 
先生の家には 同じ学年の 美人の女の子が居た 凄く綺麗だと 思った

でも 僕のダサさを 見て ウザいと 思ったのか 

居間で一緒に テレビを見て呉れなかった

お姉さんの方は3つ年上だった 可愛さでは 妹に負けるが 優しかったし

先生の代わりに 3つ上のお姉ちゃんにも 勉強を教わった

それに お婆ちゃんは 母が遅いときは 夕食まで 出してくれて

小学校の5年と6年は 馬込の アパートで 生活と 言うより

大森駅の 線路の南側で 週3回は暮らしていた

僕の 記憶では  月 水 金だと 思う

火曜と 木曜は 自分で 駅前の 本屋と 駄菓子屋 で過ごすか

用もないのに 電車を乗り越して 川崎と  品川の 間を 往復してた

南に 鶴見迄 行くと 帰れそうになくて 恐くって 

北は 品川を超える 勇気は無かった

犬の散歩で 可愛いね と 日本語で 声をかけられた

 小さな 犬が珍しいのかも ? スリランカの家族を 呼んで 広島を見せに来た と言う

筑波大学の留学生(女の子)と その 家族だ

で犬の話しを終わって サヨナラと 言ったが また路地であった

 ガネーシュって何処だと 聞かれ まさか 昔 鷹野橋に旨いのがあったが  鷹野橋は遠い

何処だ? と聞くと 本通と 言う 此処はNHKの裏だよ そう言えば 本通に出来た

仕方ない

フォローミー(付いて来て)と 歩き出した
 
日本語は 覚えるのが 大変だ という 彼女に 英語の方が楽だね と 答え

日本語は 変化が 早いからね   日本人も 何度も 言わないと 通じないのだよ

と 言うと 「えっ 通じないの?」 と 驚かれた

若者とオジンも通じないし 僕は タピオカを 飲みたく無いし インド料理は 変わらないけど

日本の料理は凄く変わっていると と 言うと

留学生の女の子が

この親父 親切なのか 脅かしてるのか 分からないと 言う 顔をしてる

でも 父と母と弟は お姉さん凄い シッカリ議論してる と 喜んで

口を開けて見てた  外人と話すのも 日本語で 良いのだ


平和公園を 犬と歩く 

岩国の基地から と 分かる  体のがっしりした男の子が  女の子2人とベンチに

話してると USAへ行った事あるか  どう思った と 聞かれたので

40年位まえ に 最初にシカゴに行き 漫画の本を買ったら 大文字だけで 驚いた

学校で 両方 (大文字と 小文字)と 言われ  損した と 思った と 

机に座って そんな事してる時間に

もっと 音楽とか スポーツしてれば  女の子と デートしてれば

良かった と 言うと  

女の子も そうだね 音楽を覚える方が 楽しいよ と ケラケラ笑ってくれた
小学校3−4年と 家庭教師の先生に 付いてもらったので 漸く

私立学校のやっている事と 公立学校の差が 回復した

でも5年に成ると 僕は母と一緒に 家を出てしまったので 

家庭教師の 先生も 母と僕の住む小さなアパートに 来てもらう事に成った

でも 僕が アパートの鍵を 落としたり 学校に置いて来たりで 母が帰る迄

アパートの前とか 大森駅の改札の前で 出て来る母を待ったりした 事が

2−3回続いたので 

僕が 先生の家に 教わりに行く事に成った

先生の家は 大森の 海岸側 母のアパートは 大森駅の 山側だった

此れは 有り難かった 先生が帰ってなくても お婆ちゃんが その家に居たので

よそのうちの お婆ちゃんだが  何時も 居たので

僕は  学校から 帰ると 他所の家の コタツに入って テレビ見て お菓子もらって

先生が 帰って来たら 少し授業してもらって 

暗くなる頃に 母の帰りなので 先生の家に寄ってもらい 

僕は 母と一緒に  大森駅の 不二家でご飯を 食べると 言う 楽しい 時間となった
寒いと 死ぬよ と 先生は良く言ってた 沢山死んだよ 

生き残るために ロシア語を 覚えたよ  教科書も ノートも 鉛筆も無いよ

相手の 言った事を 直ぐ 繰り返して 言うだけだよ  と 

誰が 悪いって 言ったて 戦争に負けた 日本と 負ける戦争をする 日本が悪いよ

恨んだって仕方が無いよ 有り難う と 言えなければ 順番が後ろに成って

食べ物が少なくなるよ 聞くと恐い話しだったが キット現実はもっと恐いのだろう
ひょろっと 痩せた 教頭の  高梨先生は  ロシアに7年 抑留されて 居た方で

イルクーツクに居たと

その先生が  「言葉が分からないと 死ぬよ」と 言われた時

この人の言葉は 漫画や 映画の中じゃなくて 本当に死ぬんだと 思った

勉強しろも 覚えろも 一言も 言わなかった ただ

僕が 分からない と言うと   延々と 話してくれた

人の言う事を ハイハイって 聞いてちゃ ダメだよ

学校の勉強は そのうち 出来るようになる  

今 出来なくても  自分が 分かる迄 考えて 自分で決めなさい

世の中の 正解は  変わるから 答えは無いよ と 何時も言ってた

で この家庭教師の先生に なぜ カタカナと ひらがなが 有るのだ? 

なぜ 両方 覚えなければと 聞いた   すると 驚いた事に

漢字は 日本語でない から始まって

男は カタカナで 女は ひらがな しか 使っちゃイケナカッタ  時代が有った

と 始まった 

良く解らないけど  この 先生の言う事は 聞かなくちゃ と 思い始めた



で 話しは飛ぶが

25歳ぐらいで 住友商事で 初めて シカゴに出張させてもらったとき

英語の漫画ぐらいなら 読めるだろうと おもって 

ペラペラの品の無いハデな色の雑誌を買った

開いて 驚いた 文章に 大文字しかない ABCしかない abcが無いのだ 

驚いて 住友商事に勤務する アメリカ人に聞いた  すると

漫画しか 読めない 奴は (学力がなく)アルファベットを 2つ 覚えられない 

彼らは 大文字だけしか 理解しない と 言われた

でも 僕は アメリカ人も 僕と同じ発想をするんだ と思った

僕は カタカナと ひらがな 2つ なぜ 覚えるんだ 1つで 良いだろう と 思った

彼らは 大文字と 小文字 2つ なぜ 覚えるんだ 1つで良いだろう と 実践してる

思った事をしてるだけで  学力が無い訳では無いと 思った

 
カタカナと ひらがな

何で 2つ 覚えるのだ 一つで 良いだろう と 

小学校1−2年で おもって 3年迄覚えなかった

でも クラス委員も首になり 私立の新しい電車に乗っていく 学校で 同じ事は出来ない

で 父母が家庭教師をつけてくれた 

教頭先生に なって 時間の余裕ができたから 見て上げましょうと

45歳から50歳ぐらいの 痩せた ひょろっとした方で

夕方 暗くなる頃に 家にきてくれた

この 先生は 覚えろと 言わない 教えもしない  テキストもない

タダ 僕と話しをしている だけだ  

でも 新しい学校で あれが分からんと 言うと

ジャー こんな事だろと 教えてくれた 此れは助かった
小学校3年で公立から 私立の 小学校に 転校した 僕は

クラス委員から クラスの3バカ大将の1人に成った

小学校の1−2年で カタカナを 習うのだが

 僕は カタカナなんて 何で 必要だ 

外国のスポーツを 表すなら 「外 せーふ」「外あうと」で 良いじゃないか

何で 同じ物を 2つ習うんだ と 反発してて 先生も「そうだな 戦争に負けたから」で

済んでいた でも 転校した 私学では 通用しない

で 父と母は心配して 家庭教師を つけて くれる 事に成った



英国で暮らすとか米国のグリーンカード(就労ビザ)とか ぼくの子供の頃の夢だった

加山雄三のバンドの 僕の幼稚園からの同期が ロスに住むと聞き 羨ましかった

今 ベトナムから密入国業者に300万円相当を払って 英国に保冷車で密入国しようとした

39人が タマタマ検閲したところ 全員死亡で 見つかったとの 英国のニュースに 驚いた

(保冷車は開けると鮮度が落ちるので  よほど怪しくないと 冷房がかかってる限り開けないらしい)

アフリカのアンゴラの海で 釣りをしてて  ボートのエンジンが壊れ 沖に流され

白人と一緒なので 通り過ぎる黒人の漁師は 助けてくれず

夕方遅く 日暮れ直前に 心配した 白人の仲間が 探しに来てくれて 助かったこと

思い出した

アフリカとは言え 海の上の 小さなボートは寒かった 

保冷車で 冷房を つけたまま は さぞかし 寒かったろう



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