夕ご飯が 遅れるわよ と 女房

玄米ご飯は 時間がかかると言う

僕は子供の頃 脚気で 夜に よく 足が痛いと 泣いたので

小さい頃から 武田のアリナミンを 飲ませてモラッテタ

お袋が 料理に 気が回らないから 玄米ご飯は 食べた事が無いが

ビタミン不足と 言う事で 小学校を終わる迄  麦飯を よく食べてた

今頃(72才になって)出されても もう 遅いが

あらたむるに  何とか と 漢文で そんなのも有った

それにしても 玄米ご飯って 以外と 美味しい

75年前の続きです

(1)父を送り出した母は 家に居ました

8月6日は 朝から日差しが強く   鳥も鳴くし 蝉の声五月蝿かったのです

所が その瞬間 全ての音が止んだ と 母は 言ってました

「何か有った 鳥や 蝉まで が静まり返る 何かが」と 思って

思って 縁側から 下駄をはいて 小さな庭に 降りました

その瞬間  何がか起こって 

振り返ると と 今出て来た 木造の (官舎)が吹き飛んで 無かった と 言ってました 

(2)父が 将校ですから  アパートでなく  一軒家で 小さな 庭が有ったのです

その庭は 軍の宿舎なので シッカリとした  コンクリートの塀で 守られて居ました

この塀が 身長が 150cmない小柄な母を  放射能からも 爆風からも 

守ってくれたと思われます

(3)母は何が起こったか 不明で 何をしたら良いのか お父さんに どうしたら会えるのか

解らなかったのですが

壊れた家から 沢山出た 薪を使って

家に残っている お米を 全部炊いて おにぎりを 作ることに しました

ご飯を炊いていると 

兵隊さんが 担架に 父をのせて 「中尉殿が 電停に 倒れていました 」と

運んで来て呉れました 会えてウレシいのですが

 頭から血をながし 意識不明でした

家が吹き飛んで 無いので 官舎の 裏山の 横穴の防空壕に 

父を 運び込んでもらいました

これから3日間 防空壕の中で 父の意識の戻るのを  

今の 家庭用の 小さな救急箱一つで 消毒してました

(4)住宅の壊れたのは 我が家だけでなく 軍の官舎も 殆ど壊れてましたので

防空壕の中は まるで 近所が 全部 キャンプしている 感じだったと

で 母が思い出して言うのは

一番 役に立ったのは 蚊取り線香と 団扇だよ と

 寝ている 父を 蚊が刺さない様に 団扇であおいで

 夜は蚊取り線香を 炊いて そばで寝てたと母は言ってました


3日たった 朝 父が「水」と 言った とき 

母は ウレシくて ウレシくて  それ迄は 3日間 緊張していたのが ほどけて 

初めて 涙が 出たよ と 母は 言ってました


広島の夏は 凪とよぶ 蒸し暑さだが 今年は何故か 風が吹いてる

天変地異は有るもんだ

申し訳ないが 頭が 原爆の日に 戻った

その日の朝 8時に 僕の父は 爆心地から 2km程西で 電車を待っていた

父は軍医将校で  陸軍病院に通勤の途中だ

が なぜか 煙草が吸いたくなったと言う

火をつけると 電車が入って来た 

混んでる

軍医将校とは言え 混んだ車内で喫煙ははばかられた

でも 恩賜の煙草は 当時 貴重だった 

勿体なくて 吸いかけでも 捨てられない

マー  上官に 出勤を報告する訳でない  1台くらい遅らせても と 思い 

煙草を吸いたく

  車掌さんに  乗らないよ コレを吸ってるから と  手で合図した

これが 生死を分けた

吸い終わった時 何かが 起こり  意識が無くなった

爆心地から直線で2kmと少し 離れていた事

電停が 太田川放水路の土手を 降りた所にあり

 爆風には 吹き飛ばされたが 

原子爆弾の放射能には  土手の影になり 直射を免れたからだ

勿論 爆心地に向かった電車の 乗客の 生死は不明である



50年前の住友商事に入社して1年目の話しだ

最初のお正月4日は 出社して 着飾った 女子社員と 写真を 取り

住友金属に ご挨拶して 午後1時からは 課内で 麻雀大会だった

サラリーマンって 気楽な家業と きたもんだ と 

植木等とクレージーキャッツの通りだと思った

ならば 体力をつけておこうと 会社の側の YMCAのスポーツ倶楽部に 入り

ウエイトリフティングなるものを 始めた 

で も翌年の4月になると  Sydneyから課長が NYから 課長代理が 帰ってきて

1年後輩の 東京外語のスペイン語が 入って来て

すこし 人生が変わった
平和公園 に 大型テント たしか マーキーmarqueeとかキャノピー canopyとか 

語源は 解らないが 言ってたのが 未だ有る 今日も遺骨を持った方が お参りしてる

父母は 己斐に居て 父は電停(西広島)で 母は官舎で 被爆したが 何故か生き延びて

僕を産んでくれた

 娘も息子も 袋町小学校なので 女房が袋町小学校 父兄合唱部 として  

毎年 「あー許すまじ」を 歌ってた

でも 今年は 鳩も 合唱も 精霊流しも 無い

鳩の鳩舎の方は 随分と収入に響くだろうな と 思う

鳩は ダンダン 野良の鳩が 増えて来て 至る所に「餌をヤラナイで下さい」と書いてある

個人的には カラスを減らして 鳩を増やしてくれた方が 少し散歩するのに 

小さな子犬なので 安心するの カラスだと 僕の家の3kg無い犬は 負けそうだ

何とも お役所の触りたく無い加減と  人間の都合で 勝手なものだ




子供の頃は50ー60年前は 鳩を飼う 家庭は 進んだ家庭だった

隣の家の お兄ちゃんが飼って 威張ってた

鳩舎も 近くに2軒ほどあって クークー言うのを聞くと 

伝書鳩は 偉くって 有楽町の新聞社の屋上にも 居た で

教科書にも 伝書鳩の話しが 有った 

良い国の イギリスが鳩を使い  酷い国のドイツが鷹で 攻撃したみたいに 書いてあった

時代が 変われば 言う事も 違うのだろう

(1)原爆の日だ 袋町小学校の父兄合唱部として 

女房が白のブラウス黒の長いスカートで

朝早くから 平和公園に 出かけてたのは20年程前だ 

(2)でも このblogは 50年前の住友商事に 入社した頃に 戻る  

新入社員の僕が 暇です と  あまりに堂々と言うので   課長が  少し困って

「君はコンピューター解るか?」と聞く

 僕が「Fortranを授業で受けましたが 実際には 10行ぐらいの プログラムかしてません」

課長が「なら コレをやれ オリベッティ(イタリア)の機械だが 操作は英語だ」 と言う

使いづらい 皆が解るように 直せ と

日本事務機という 会社が 輸入代理店で そこの 担当者が 来て呉れて

英語の説明書を くれたのだが イタリア語からの翻訳で イマイチ良く分からない

でも  キャパの小さい 動きの遅い タイプライターに 計算機が 着いた様な 物だと言う事は解った

その担当者も 僕と同じ程度の理解だったので 直ぐ 仲良くなった

お蔭で 暫く この機械と 遊ばせて貰った

で 解って来ると この 遅い機械で  如何に 少ない計算式(ステップ)にするのかが 

オリベッティの言うプログラムだと 解った

(3)解ってしまえば 僕の見積もり依頼書だけ タイプで出て来る

他の 熟練の方の見積もり依頼書は 綺麗に書いてあるが 手書きだ で 

ニューヨークに送る テレックスの原稿も 数字と商品名はタイプで出て来る

ただ 問題は 入力してから 機械が ウンウン動いて タイプライターが 打ち出す迄

時間が かかる 必要な項目を 入力してから 機械が計算して動いてくれるのを待ち

暫くすると タイプが ポチポチポチと 打ち出す

(4)入力してから 機械が 動いてくれる迄 最初は心配だっtが 慣れてくれば

後は 機械任せだ でも 遅いので 椅子をクルクルまわしたり 遊んでた

すると 課長が

「浅井君 仕事して いる 間に 鼻歌は 止めて くれないか

 それに 君は 音痴だ」と









50年前の話しだから 正確でないかも 知れない

第2外国語で 中国語をやっていたので  同じ中国語をやっている 青木から

4年になって直ぐに おい 一緒に 受けに行こうよ 住友商事に と 言われた

彼は 1浪で広島学園で 僕の父母が 広島に居た(原爆の時)もあり 浅井と青木で

出席簿も 並んでいたので 小柄だが 運動神経も 僕より良く 僕は尊敬してた

で 2人とも 受かったのだが 

入ってみて 驚いた

課長が 東京外語大で 指導員の方が 高卒だった

仕事は ニューヨークから 日本語でくる (テレックスと 言う テープ出来た)を

紙に書き直し 住友金属へ 行って お値段を出してもらい

出した 値段に 船賃と 諸費用を計算し360円(当時はドルが360円だっt)で割って

ドルに直し 夕方から 課長の決裁をもらい 帰宅迄に 日本語で幾ら幾らです

と 見積もりを作る事だった

で 盆明けに辞令貰って 出頭した 特殊管貿易課に行くと

最初に 課長が 言われたのが  

何で 東大でて 官僚にならない 商社は 語学以外は  商人の高卒で充分だよと

ショックでは無かったが  暇だった  大坂で5月半ばから研修が長かったので

速く仕事がシタカッタが  それほど 大変な仕事では無いなと 思った
太っている事を 除けば 小柄で 美人の 奥さんが 大きな ベビーカーで 散歩だ

後ろから コレまた 足のふっくらした のを 除けば 可愛い 女の子が 二人だ

顔立ちは 西洋風だが 背丈は 日本人並みだ

3姉妹になっては と 申し訳なくて ベビーカーを 覗き込めなかった

犬が居ると 便利だ

小学校と幼稚園くらいの 女の子 が 「可愛い」と 日本語で 寄って来る

何処からと 英語で聞くと 日本語でアルメニア と帰って来た

もう2年ココに 居るそうだ 日本語が 上手い

でも その アルメニアだか アルバニアが 何処に 有るのか 世界地図が 出て来ない

昔 スペインの アル ハンブラに 行ったと 思い出しても

アルカイダと 思い出す程度にしか 役に立たない

年は 取りたく無い
夏になったので 夕方の風呂が 気持ちが良い

(1)運動部 体罰

高校も大学も 僕の居たラクビー部は 暴力的な事も 下級生を 殴るなんて事も無かった

と 書いたら  下級生から「面と向かって 殴るのは 無かったけど 失敗したり 出来ないと

よく 尻を叩かれました」と 言って来た 

50年も60年も前の事だから 正確では無いが 確かに

試合中に 腰が高い ヒョロと立つんじゃない と お尻を叩かれた事は 有ったが  

僕の姿勢が悪いので 先輩に 殴られた とは 思わなかった

まして 新聞沙汰に しようと するような 感情のもつれ は無かった

(2)風呂

高校のラクビー部は お風呂が無かったので  体を水道の水で拭いていた

体は洗えても 体操着は 洗えない (洗って干してる先輩も 居た)

僕は 臭いジャージを鞄につめて 家に持ち帰り  毎日 お袋に 洗ってもらってた 

翌朝は 前々日のジャージを 鞄につめて 出かけた

だから朝の登校時は良いのだけと 

帰りの下校時に無理矢理 臭いジャージーを詰め込むので

教科書とノートがダンダンよれよれになり 学期の終わり頃は 教科書も臭かった

(3)大学のラクビー部

それが何と大学のラクビー部に入ったら 部室の脇に 風呂場が有る  洗濯機は有る

しかも 風呂炊きは 4年生がしてくれるのだ 何と素晴らしいと 思った

練習の途中で 4年生のマネージャーが風呂炊きに 行きまーす と言って部室に戻ると

あと30分もすれば練習が終わるのだ 
 
しかも 1年生が 先に入っても 怒られない 

加えて 熱心な3ー4年生は 練習の後に 自分だけの訓練を 入れてるから 

ナカナカ部室に 戻って来ない  僕は洗濯機に汚れ物を入れて 風呂に1番で入れる

天国みたいな ラクビー部だと 思った


朝の6時と 夕方の6時に 犬と散歩だ  日差しが熱い

35年ぐらい前に アフリカから パリ経由 日本に帰る時だ

アフリカからの飛行機が 3時間も 遅れてた

しかも アフリカからの便は (国内というか 植民地の扱いで)南の飛行場について

北の国際線のドゴールまで 行った時には 当然ながら 既に出発済みだだった

アフリカの便が パリに3時間遅れで 着いたので どうしても 間に合わないのだが

飛行機会社が ドゴールまで 言って呉れ と 言うので 

行って カウンターで 事情を説明し

一泊分のホテル代と 食事 飛行場迄の 往復の交通費を 請求した

で フランス語なんて出来ないし 

当時は フランスは 意地でも 英語使わないし

仕方が無い ポルトガル語で 交渉してて クーポン券もらって ホテルを聞いて

ホット したら 

カウンターに 居た もう一人の フランス人の 可愛い子ちゃんが

僕の 話し相手にの叔母ちゃんんに 聞いていた?

あの人 何語を 喋ってたの? 良く通じたわね と 

すると 僕を 相手に してくれた カウンターの叔母さんが

「あら 日本人の フランス語なんて あんな ものよ 」

と 隣の 女の子に 言う

コレを聞いた 嬉しくなって 住友商事の パリ支店に顔出して

女の子を からかってたら 所長が 出て来て

ポルトガル語は 通じるけど 酷いズーズー弁みたいで

「オミャー様 何処から 来なさった」 みたいだから 英語にしてくれ と渋い顔をする

ポルトガルをパリで使う人は

朝早く か 土日に パリの 道路を掃除してる ポルトガルの出稼ぎだよ 

会社の前の道路で何か 問題おこして ポルトガルの掃除のオジさんが

事務所に入って来たのかと 思った と 



朝の間に 犬の散歩を 午後は 犬は散髪に 行ったので 一日ぐらい綺麗なままでと散歩なし

女房が 東京の蒲田の鰻屋さんから 鰻を取ったわ 老舗らしいの 知ってる? と 言う

蒲田の鰻屋は 老舗は すずき だよ

西口の戦前に出来たモグリの女郎や街の 入り口と 戦後に出来た 六郷のすずきだよ

でも 親父は 鰻は 大森海岸の三業地だと 言って

大森迄まで 食べに連れて行って呉れたったから 蒲田では 食べなかったよ

三業地と言うのが 大森海岸にあって  梅村か 野田岩だった 気が

三業ってのは 1料理屋2 芸者置屋(女の子の派遣)と 3待合い(宴会場とホテル)だよ

貴方 食べる前に 講釈が 多いわよ  関西の鰻は イマイチって 言うから 

東京から取ったのに
朝早く 散歩に出ないと 犬が足の裏が熱いと 言い出す

さて60年ほど前の事だ

小学校1−2の頃 パイナップルの缶詰を 米軍さんが 小学校に沢山くれた

(横田から羽田迄 米軍の 線路が 走ってた時代があって その線路脇の 小学校だった)

平たい輪っかの パイナップルは 一人に1個 づつ 配られた

でも 残りの シロップは 誰でも 早いもん順に 飲んで良かった

冷蔵庫も 氷もなかった けど 旨かった

で 子供の頃から  ひねくれてる 僕は

アメリカ人ってのは 人が良いのか悪いのか 分からない

 何で 果物の 真ん中 に 穴開けるんだろう

本当は あの 真ん中が  旨くって 自分たちで 真ん中だけ食べて

 残りを 日本人に 呉れてるのか

手間かけて 変な事を する 奴だな アメリカ人は と 思った


朝曇りだったので ユックリと犬の散歩が出来た

昼に郵便局に支払いに行くと 真夏を思わせる天気だった

で夕方 にわか雨だ 終わって 晴れたので 夕方の散歩が 出来たが

足が熱いから帰ると 犬が言い出した

閑話休題

昼の食事に 素麺が出た

揖保の糸を 毎年 送って呉れた 小豆島の方が亡くなって 何年か経ったのに

食事に出て来たので アレ? 何処から来たの? と聞くと 東京からと

 素麺を食べ乍ら 二十四の瞳を 思いだしたが 内容も 記憶も定かでない

高峰秀子 さん が 綺麗だ 以外に 何も覚えてない 学校で見させられた気がする

戦争は良く無いと 日本には古い良い文化が有ったと 言ってた気がする

でも 不二家で 食べる ソフトクリームが 美味しかったし

チョコレートは 高くて ナカナカ食べられなかったけど

フィンガーチョコって言う棒状のチョコを塗った 乾パンみたいなのがあって

その銀紙を剥くだけででも ウレシかったので

チョコレートも知らんで 戦争なんか やってたんだ? と 思ってた

今は ポッキーに成ってるから 子供たちには フィンガーチョコじゃ通じない

戦争はイケナイんだ と 言われても 自分たちで始めたのに と 思ってた






ピカピカと良く光る 

近くの避雷針に 落ちるの だろう 光ってから音がする迄の 時間が短い

9才の犬は 怖がって抱けと言うし 

6ヶ月の犬は 恐くって 吠え回っている 犬にも性格の差が有る

雷は豊作を と言うけど 田植えした田んぼが 冠水しては 稲も出来ないかも

今年の秋は 新米どころか アメリカの 古くなった シリアルの 朝ご飯に なるかも
夜の9時に 東京に 葉書を 出そう と 中央郵便局に持って行った

古い52円の葉書なので11円の追加が 必要だ

所が 午後7時迄の営業です と書いてある 

おい 何の為の 中央郵便局なのだよ

50年前だが 夜12時近くに 

東京駅の 丸の内の 南側の 中央郵便局に 急いで 海外に送る 郵便物を

持って行くのは 新人の僕らの 役目だった

広島とはいえ 中央郵便局なのだろう と  思わず 怒ろうと 思った

でも 家の側まできて

そうだ7−11が有ったと 思った  で平和大通の白神さんの南側の

7−11で 10円の切手と1円の切手を買って 投函した

郵便局も 大変なのだろう
小学校の2年の 終わりの頃 64−5年前の 話しだ

国語の先生が担任で 「過ぎたるは 及ばざるが 如し」 を説明してくれた

僕は 2年生だったけど 先生違う 「過ぎたぎた時間は 戻らない」 なら 分かる

それ 「オヨビ」 なんて クレージーキャッツと 植木等の 「お呼びじゃない」しか 知らない

使わない物を 教えないで と 手を挙げて 言った

先生は 少し 教壇で 黙って 目を 伏せていたが 少し肩を 落として

「浅井 そうだな 俺たちは 戦争に 負けたからな

 昔の事を そのまま 教えてちゃ イケナイのかも 」と 譲ってくれた

この 負けた事を覚えていたから 日本は此処迄 発展したのでは ないか と 思う

アメリカに 出張した時に

白人の 上司は 昼飯を付き合ってくれたが

半分 黒人の 部下が 自宅で 夕飯の 接待をしてくれた

会社から お金がでて 家族全部の 夕食代が 出るんだ と 言っていた

その 半地下の 遊び部屋で  息子さんと サッカーのボードゲームを させて貰った

バスケの シュートのゲームも有った

でも こんなに沢山 Tーシャツや お菓子や ゲームが有っても

日本の方が 優れているような 気がした これも40年ほど昔の話しだ

今 日本も酷いけど アメリカの貧民の方は もっと 酷いと思う

戦争が 階層を壊してくれた事に 少しは 感謝しなきゃと 思う



36年前 36才で 出向したのが テレコム サービスと 言う7人の会社だ と 書き出した時に

女房が昼飯を出してくれた フレンチトーストが 乗ってる (前にも書いたが)

55ー6年前

初めて ニューヨークに 行って メニューが読めずに 

一番高い トーストを頼んだら フレンチトーストと 言って

牛乳砂糖と卵に浸して フライパンで 炒めたトーストが出て来て 食べるのが大変だった 

(当時の海外出張は 羽田迄 会社から 黒塗りの車が 迎えに来た)

多分 その出張の際に おい浅井 飲み屋に連れててやると 言われ

夜 日本食屋で ラーメンを食べた 後に 女の子の 居る 店に連れて行って貰った

で 女の子の顔が 東洋系なのに 驚いた (日本人は居なかったが韓国とフリッピンだった)

でも その中の 四角い顔の黒い女の子がママに 怒られてる

するとママがカウンターから出て来て 殴った

何を怒られているのが 分からなかったが 

その子だけ アジア系でなくて 米国のインディアンで英語もイマイチ通じなかったのかも

まさか ニューヨークでと 驚いた 

僕は体罰を 経験してないのだ

僕は体育会系のはずなのだが 高校のラクビー部でも 大学でも殴られたことも ないし 

そんな現場にも 居合わせてた事がないので 

まさか  ニューヨークの酒屋で亭主(女性)が 従業員を殴るのを 見ながら酒を飲むと

思わなかった

で 書き乍ら 思い出した

ラクビー部で 練習の時に下手な選手を殴るの見たのは 一度だけ  高校の時に 

板橋の 高島平の高校に試合に行って  相手のチームの試合前の練習を見たら

足の遅い 下級生を 後ろから 上級生が 足で蹴ってるのを見て ヒヤーと した

続いてコレも 思い出した

 10年程まえの 大坂の桜宮のバスケのキャプテン自殺も 驚いた

体育会系には まだ 殴る 精神が 生きてるのだろう

僕は72年前に 生まれたけど 運動で 殴られた事は 無かった 

それとも 戦争後の 日本の敗戦で 教師や 先輩に  確固たる信念で指導する

自信も気力も無かった 空白の時代だったから 助かったのかも


子犬に 氷を 上げた 冷たくて 美味しいらしく  ペロペロ 舐めてる

床でツルツルすべるのが 楽しいらしく 

追いかけて 舐めて 舐めて 追いかけてと 

小さくなる迄 繰り返す



水飲みのお皿に 氷を3ッ浮かせて  一つ一つ 取り出して 食べさした

3ッ遊び終わった所で  問題が 起こった

子犬が 水の皿の 中に 堅くて ツルツルした物が有った

それは  床の上に出すと  駆けっこの相手をしくれて 

舐めて美味しいと 気がついた

で 水の中に有る筈だ と思い込んだ

自分の足で水の皿を 搔き出して 堅い物が 出てくる筈だ と

あれ堅いものが無い 堅い物が無いと

水の皿から 水をかき出し  ついに 床を 水浸しに してしまった

学生時代に 勉強では 自分は 周りの人に付いて 行くのが精一杯だから

せめて ラクビーだけは 下手でも 何とかしようと 真面目だった

ある日 僕の時の監督の 高島清さんが グランドに来てた

お話すると

エッ 海外でブラジルか アフリカか知らないお前が  住友商事で 海外じゃなくて

国内のJRの下請けの 電話屋 いったいそれは何だ と 心配してくれた

エッ アフリカで その国に電話網一式を 売ってその通訳で アフリカに居たんだろ

JR なら 井手って言うのが 居る 会いに行け と 言われた

親切に 電話もしてくれた


36年前の話しである

(1)海外で通用しても日本ではね

36才で 住友商事で ブラジルと アフリカと イ

ンドネシアとシンガポールを 回って来たから

僕は 海外で通用するから 大丈夫だと 思ってたら

サラリーマンは 気楽な家業とは 行かなかった

国内の出向ってのが 有って 

7人の爺捨て山みたいな 会社の しかも 一番下っ端なのだ

作業は 親会社の割引契約なのだ  

英語もポルトガル語も 必要ないのだ

(2)身寄りが無い

で 頼み込む 上司が居ない 「ネー 貴方の指示通り働いてたから 救ってよ」と 頼れない

色んな部署の仕事をしていたが 僕がお願いすれば聞いてくれる

コレ一つと言う上司が居ない 

親に愚痴を聞いてもらう年は過ぎた

仕方が無いから  ラクビーのグランドに 戻った

高校に 顔を出すと OBも居ないし 学生さんも「何だろね この オジンは?」と 言う顔だ

(3)大学のグランドに顔をだすと

学年が4つ上の 弁護士に成った先輩が 監督をして居た

会社で何か有ったか? と 直球で 聞いてくれた  ウレシかった

愚痴をひとしきり 聞いてもらって ホットした

大きな組織は 一人の力じゃ動かないよ と 言われてみれば 当たり前だ

それに アフリカ ブラジルって 威張るなよ とも 言われた

(4)そこへ 15年上の先輩が グランドの脇で 着替えてる

驚いて エッ 学生と走るのですか? と聞くと 

違うよ 学生さんは 俺たちみたいな 年寄りは 相手にしてくれないよ

それより 不惑って40才から入る ラクビーが有るから 少し早いけど おいでよ

次の 日曜日は 松戸の自衛隊のグランドだよ と

(5)松戸の自衛隊なら 行けます

松川さん(多分昭和25年 卒)の お蔭で合宿させて貰ったので 覚えてますと

次の週から 走らせてもらう事に した でも 直ぐに は 走れない

半年程して すこし 走れるようになると  あばらの骨をおり

腿の肉離れもあり  見に行ってるだけで 走れない日が 1年は続いた

でも 土曜日と日曜日は 別の場所で別の事が出来ると ホットした


頭ばっかりでも 体ばっかり でも ダメよね と 言う 歌が 身にしみた



 

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